Dr.本田徹のひとりごと(52)2014.5.22
パレスチナ人とユダヤ人の魂の対話「
パレスチナ人とユダヤ人の魂の対話
以下に、掲載させていただくのは、今年91歳になる、イスラエルを代表する知識人にして平和運動家のUri Avnery(ウリ・アヴネリ)氏が最近書いたエッセーで、Salman Abu Sitta(サルマン・アブ・シッタ)という、ベドウィン出身のパレスチナ人からの問いかけに対する返信という形を取っていますが、二人の深い、誠実な対話に心を動かされ、先週末(5月17日)一気に訳してしまったものです。
難民問題を、具体的な、人間の顔の見えるものとして、理解していただく助けになれば嬉しいです。
添付した写真は、2002年春にパレスチナを訪問した際、エルサレムで行われた、2つの民族の間の平和を求めるデモに参加した際お会いした、アヴネリさんを撮らせていただいたものです。
‘Dear Salman’ by Uri Avnery (May 17, 2014)
愛しいサルマンへ、
何年も前に私は、パリで開かれた国連主催のパレスチナ難民に関する会議に招かれた。私は、イスラエル人として、ディベートを受けて立つ役目だった。私に先だって論端を開く、サルマン・アブ・シッタは、Negev砂漠に住んでいたベドウィン部族の出身で、パレスチナ人を代表していた。
このディベートの前に、私は警告を受けた。アブ・シッタはパレスチナ難民の中でも、もっとも過激な考えを持つ、名高いイスラエル憎悪者である、と。私が登壇する番になった時、私は聴衆の前で、自分が、彼に答える形で発言するか、それとも、あらかじめ用意してあったテキストを読み上げるか、選択しなければならなかった。そして、この場においては、後者を選び、その代り、彼を私的なディナーに招くことを約束し、そこで彼の論点について応えたい、と述べた。
私が発言を終えた後、アブ・シッタは、約束を忘れないように促した。ほど経ず私たちはパリの静かなレストランで夕食を共にし、彼がすばらしく人を惹きつける人物であることを知った。同席していた私の亡妻レィチェルは、彼の語る、’Naqba’「ナクバ」(1948年の中東線戦争でパレスチナ人が難民化した「大惨害」のこと)で、当時のアブ・シッタ少年の流亡の物語に深く心を動かされた。私もまたそうだった。
彼は今では、富裕な国際的建築業者となり、パレスチナ難民の窮状を救うためにその人生を捧げ、「ナクバ」に関して右に出る者のない語り手となったと言える。
今週、私は彼から一通の手紙を受け取った。一字一句省かず、以下にそれを掲げる。
愛しいウリへ、
私は非常な関心をもって、ハーレッツ(イスラエルの代表的な新聞)に掲載された、あなたの、豊饒で、事件に満ちた人生をめぐるインタビュー記事を読みました。あなたは1950年代初頭に、古い教条は役に立たないし、倫理的でもないということを確信して以来、あなたの信念に忠実であり続けました。
私は今でも、あなたとパリで食事をともにしながら交わした会話を、生き生きと思い出します。あなたの妻レィチェルも一緒でしたね。彼女の魂に神の恵みを。
あなたは、ヘルムートというドイツ人だったご自身の若い時代のことを語ってくれました。その後あなたは、’Irgun’ というユダヤ人テロリスト組織に参加していたのでした。そしてあなたは、Hulayquatの山頂に機関銃を肩にして登ったのでした。今この山のてっぺんには、あなたのような兵士たちの「名誉」を讃える記念碑がたっていますね。あなたは山頂から、「人の海」と言ってよいほどの数の、故郷を追放されたパレスチナ難民たちが、海岸沿いにガザを目指して南下するのを目撃したのでした。
私もまた、あなたに私の物語をしたのでした。どんなわけで私が、一人のユダヤ人のことも人生で知る前に難民となり、私がその後何年も何年もかけて、だれが私たちをこんなひどい目にあわせたのか、その人の名前、顔、そして彼の部隊の名まで見つけ出そうと努めました。
私はあなたにこう聞いたことを記憶しています。「もしあなたの隣家だったら、あなたは私が自分の家に戻ることに同意してくれますか?」 あなたは、強い調子で、「No」と答えました。
私は、あなたとのこうしたことをすべて、今年ヨーロッパと北米で出版される私の回顧録に書きました。
私は、同じようではあるが、しかし結末の違った話を思い出しました。私が言っているのは、Dr. Tikva Honig-Parnassによる、「’48年世代の娘による回想」のことです。これは、パレスチナ人に加えられた、ゆゆしい不正義という真実と現実が、Palmach兵士(イスラエル建国時の精鋭地下組織部隊)であった彼女に、いかにして迫ったかという、心を動かされる記録でした。それ以来、彼女は、パレスチナ人の権利を、帰還の権利も含めてですが、擁護することに、自身の精力を注ぐようになります。
私は残念ながら、あなたのインタビュー記事からは、「帰還の権利」を認める、なんらかの言及を、あるいは過去のあなたの帰還に対する否定的見解を撤回する「かけら」すら、認めることができませんでした。犯された大罪、つまりはパレスチナ人に対する民族浄化への謝罪や補償の言葉が一切なかったのです。あなたのように長寿をまっとうされた方(私はもっとあなたに長生きしていただきたいと願う者ですが)にとって、若き日にテロリストとしてあなたが登ったあの山頂にもう一度登攀して、聞く耳を持つほどの者すべてに向かって、こう叫ぶほど、あなたの人生の経験を締めくくるにふさわしいことはないのではないでしょうか?
「パレスチナ難民は帰還すべきだ。われらユダヤ人は、民族浄化の罪を悔い改めなければならない。」
こんなことを申し上げるのは、自己を厳しく律してきたあなたのような人格にたいして、あまりに失礼なことでしょうか? でも私はこのことを、パレスチナ人のために言っているのではありません。なぜって、どっちにしても、私たちは必ず故地に帰るからです。私は、ただ、山頂でのこの行動が、あなたの人生の達成のすべてを飾る、イスラエル世界にとっての王冠になると信じるからです。
私が繰り返し書いてきたように、ユダヤ人の歴史は、言われるようなキリストの血で手を汚しているといった真偽のはっきりしないことや、第二次世界大戦でのナチの残虐行為によって特色づけられる以上に、彼らがパレスチナ人に対して、意図的にそして恒常的に、しかも良心の呵責も後悔も償いもなく、犯し続けてきたことによって、消し難く記録されるのです。このことは、人類そのものがもつ、歴史から学ぼうとせず、自らの倫理的な姿勢を空洞化させてしまった魂の、一面を反映するものとも言えます。
敬意をこめて
サルマン・アブ・シッタ
愛しいサルマン、
私はあなたの手紙に心底心を揺さぶられました。あなたにお答えするため、私は何日もかけて、勇気を呼び起こさねばなりませんでした。私はできる限りの誠意をもってお答えします。
私もまた、パリでのあなたとの会話を生き生きと覚えています。そして、そのことを私自身の回顧録の第二部で書きました。本は今年の内に出版されるでしょう。読者にとって、同じ対話についての私たち二人の記述を読み比べることは、興味深いこととなるでしょう。Hulayqat山で私が見たことについては、すでに私は第一部に書いていて、ヘブライ語版はすでに出版されています。
1948年の戦争で負傷したとき、私は心に誓いました。私の人生を賭けてのミッションは、二つの民の間の平和のために働くことだ、と。私はこの誓いに背かなかったと信じたいです。
これほどの長い、苛酷な紛争の後で、平和を創ることは、道義的であるとともに政治的な企図にならざるをえません。そして、この二つの要請の間にはしばしば矛盾もあるのです。
私にも何人かイスラエルで尊敬する人がいます。たとえば、あなたが書いているTikvaのような人。難民の味わった悲劇の道義的な側面に完全に没入し、そのことが、平和の達成にどのような影響をもたらすかについては必ずしも顧慮しない。私自身にとって道義的な展望は、なによりも平和が一番の目標となるべきで、それ以上のものはないのです。
1948年の戦争は、本当にひどい人間的悲劇でした。戦い合う両者が、それぞれの生き残りを賭けた戦いと信じ、彼らの全生命が秤にかけられていると思っていました。当時はまだその言葉は一般に使われていませんでしたが、「民族浄化」が両者によって行われていたことは、忘れられがちなのです。イスラエル側は、大きな地域を占領しました。そのため、より深刻な難民問題を生みだしました。一方パレスチナ側は、比較的小さなユダヤ人地域しか攻め取ることができませんでした。たとえば、エルサレムの旧市街やベツレヘム南部にあるEtzion入植地。これらからは一人残らずユダヤ人が逃亡しました。
最近のボスニア戦争のように、戦争には民族戦争の性格が伴います。紛争の両者が、互いの領地のできるだけ多くをぶんどり、相手側の住民をそこから「空っぽ」にする。
目撃証人であるとともに、参加者でもあった私は、難民問題の起源は非常に複雑であると思っています。48年戦争の最初の数か月間は、アラブ人の村への襲撃は、純然たる軍事的な要請によるものでした。その時期、私たちイスラエル人は、いわば「より弱い側」だったのです。数度にわたる非常に残酷な戦闘の後、戦いの歯車は私たちに都合よく回るようになり、シオニスト指導部は意図的にアラブ人の放逐に乗り出します。
しかし、真の問いは、なぜ戦争が終わっても、75万人のパレスチナ人は帰還を許されなかったのかということです。
1948年当時の状況について、理解をもつことは忘れないでほしいのです。アウシュビッツやその他の強制収容所の、人を焼却した煙突が冷たくなって、まだ3年しか経っていませんでした。何十万人という、悲惨な生存者がヨーロッパ中の難民キャンプに満ちみち、どこにも行くところがなかったのです。ただ一つ、新生イスラエル国家を除いて。彼らはここに連れてこられ、大急ぎでパレスチナ人の家族が住んでいた家をあてがわれたのです。
これらすべてはしかし、私たちイスラエル国家の、パレスチナ人難民が蒙った恐るべき悲劇を終わらせる義務を免除するものではありませんでした。1953年に私は、自分が発行する雑誌 ”Haolam Hazeh”の中で、難民問題を解決するための具体的なプランを提示しました。そこには、(a) 難民への謝罪と原則としての「帰還の権利」の承認、(b) かなりの数の難民の実際の帰還と定住、(c) その他の帰還できない難民への十分な金銭的補償。しかし、イスラエル政府は、たった一人たりとも難民の帰還を認めなかったため、こうしたプランが検討さえされなかったのです。
なぜ私は、山の上に登って、難民たちの帰還を大声で叫ばないのでしょうか?
平和は、二つの交渉者が互いに同意することではじめて成り立ちます。大半のイスラエル人が、すべてのパレスチナ難民とその子孫の帰還を、自由意思で受け入れるチャンスは絶対にありません。これらのパレスチナ人の総数は600から800万人になり、現在のイスラエル国内のユダヤ系市民の数に匹敵します。このことは、「ユダヤ人国家」の終焉と、「二民族国家」の始まりを意味します。99%のイスラエル人は、強硬にこれに反対するでしょう。軍事的に圧倒的な敗北をイスラエルに負わせる以外に、このようなことを押し付けることはできませんが、イスラエルは核を含め、圧倒的な軍事的優位を周囲の国々に対して有しており、起きえないことと言えます。
私は山の上に登って叫ぶことはできますが、そのことで、平和や紛争の解決をすこしでも近づけることはできないのです。
私の心にとって、解決を100年待ち、その間、紛争や悲惨がずっと続くという方が、道義的でないのです。
愛しいサルマン、私はあなたの主張を注意深く聴きました。
あなたは、イスラエルはすべてのパレスチナ難民を受け入れ、まったく人の住まないNegev砂漠に住まわせればよい、と言います。そうかもしれません。
でもほとんどのイスラエル人は、Negevへの受け入れという考えにすら賛成しないでしょう。なぜなら、彼らはイスラエルにおけるユダヤ人の数の優位を絶対に守ろうとするに違いないからです。それに、あなたの提案には論理性があるとも思えないのです。
1982年にヤーセル・アラファットにベイルートで会った時、私はいくつかのパレスチナ人難民キャンプをも訪問しました。私は彼らに、イスラエル国内に帰る意思があるかと聞きました。彼らは、もともと生み育った村に帰りたい(それらの村はすでに消滅させられていたのですが)のであって、イスラエル国内の別の場所に行きたいという気持ちはありませんでした。
彼らを、シオニストが支配し、ヘブライ語が話される国の、父祖の地から遠く離れた砂漠の苛酷な環境のもとに置くことに、どんな意味があるのでしょう? 彼らはそれを望むでしょうか?
アラファットと彼の後継者たちは、彼らの目標を「正当で互いに合意された解決」に置いていました。つまり、イスラエル政府に拒否権を与えていたということです。現実的には、「帰還」ということを象徴できるだけの、ごく限られた数の人々の帰還ということが落としどころだったのです。
私の最近の提案は、イスラエル大統領が、イスラエル国民の名において、難民の悲劇が生まれ、長年解決できなかったことへの、深甚なる謝罪と反省の表明をすることでした。
またイスラエル政府は、難民が道義的には帰還する権利を有していることも認めなければなりません。
イスラエルは、毎年5万人の帰還難民を、10年間にわたって計画的に受け入れなければなりません。私はたぶんイスラエル国内で、この数を提案するたった一人に人間でしょう。ほとんどの平和活動団体は全体で10万人に受入数を留めています。
それ以外の難民は、ドイツがユダヤ人犠牲者に支払ったのと同様のやり方で(額を同じ水準でということには必ずしもならないが)、補償されるべきでしょう。
パレスチナ国家の創立とともに、難民もまた新国家のパスポートを交付され、彼らの祖国に戻り、定着することも許されるでしょう。
それほど遠くない将来、イスラエルとパレスチナの2国家が、最終的に、隣どうしの国として存在できるようになり、国境が開かれ、両国が首都エルサレムを共有するようになった暁には、中東地域全体の大きな枠の中で、難民問題はその「棘」を失っていくようになるでしょう。
この手紙をあなたに向けて書くことは、正直苦痛でした。私にとって難民は、抽象的な問題ではありません。それは、人間の顔をした人間たちなのです。私はウソを言いたくありません。真実、Negev砂漠の中であっても、あなたと隣人として生きていくことは、私にとって、名誉なことなのです。ごきげんよう。 ウリ。
2014年5月22日
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