見出し画像

Dr.本田徹のひとりごと(56)2015.4.30

お薦めの一冊 『NGOのためのユニバーサル・ヘルス・カバレッジ(UHC) ハンドブック ーすべての人に健康を届けるためには』


『NGOのためのユニバーサル・ヘルス・カバレッジ(UHC)
ハンドブック-すべての人に健康を届けるためには』
発行:外務省国際協力局民間援助連携室
編集:(特活)アフリカ日本協議会

 世の中には何度説明を受けても、よく分からない言葉というものがあります。最近だと、日本の医療・介護・福祉現場で話題にならない日のない「地域包括ケア」など、その最たるものなのでしょう。言葉や政策が「腑に落ちる」ことの難しさ、それは提案し施行する側(為政者)にとっても、受け入れ利用する側(一般市民)にとってもたいへんなことなのだと思います。そもそも、専門家・政治家集団と普通の市民・人びとの間で、分け隔てや役割の固定化が、無意識のうちに行われ、それを受け入れてしまうところに、日本の防衛政策や原発問題や憲法改正論議における不幸があるのだとも言えます。

そう言えば、村上春樹さんは、最近の共同通信社記者とのインタビュー(毎日新聞と東京新聞には大きく掲載されていました)で、”Nuclear Power Plant” という言葉を正確に訳せば、「原子力発電所」ではなく、「核発電所」と表記すべきなのだ、と語っていましたね。さすが作家の言い分は「腑に落ちる」ものでした。

広く人びとの暮らしや健康に重大な影響をもたらす言葉の意味、その言葉が指し示す現実や制度については、分からないまま済ませておくことはできません。市民の側・人びとの側で、しっかりした当事者意識、「私たちに関係することは、私たち自身で決めていこうよ」(Nothing About Us Without Us)の精神を涵養していく必要性が高いのです。その意味で、近年、国際保健や国際協力の分野でとみに重視されている考え方、もしくは「流行り言葉」(buzz word) が、ユニバーサル・ヘルス・カバレッジ(Universal Health Coverage:UHC)です。普通には「国民皆保健制度」と訳されることが多い言葉ですが、両者は完全に同じものではありません。UHCはより広い、それこそ普遍的な概念です。むしろ「国民」という枠から外された人びと(無保険者、難民、ホームレス者、無国籍者など)に対しても、基本的人権と人間の安全保障の理念から、必要な医療・保健サービスが提供できるように、いかに配慮していくかという発想こそが、UHCの真骨頂なのだと言えます。

アフリカ日本協議会(AJF)の稲場雅紀さんらを中心にして、まとめられた、標記の冊子は、この、大事でありながら、「人口(じんこう)に膾炙(かいしゃ)した」とはまだ言えない言葉・考え方を、多角的に捉えようとした、貴重な試みであり、成果だと言えます。もともとは、平成26年度、外務省民間援助連携室とNGO団体とで構成する「NGO研究会」の共通テーマとしてこのUHCが選ばれたことが発端となり、何度かのセミナーが開かれ(そのうち1回には私もゲストスピーカーとしてお招きいただき、プライマリ・ヘルス・ケアとUHCの関連、とくに佐久病院の若月院長や沢内村の深沢村長の事例などをお話する機会を与えられました)、さらにフィリピンの地域医療へのフィールド調査なども踏まえて、成果物として今回まとめられたのでした。

本書は全体を3部に分かち、
第1部 UHCを「腑に落とす」(UHCの定義、原則、歴史的背景、市場経済・人権・アドボカシーとの関係などの解説)
第2部 UHCの現状と市民社会の活動 ― フィリピンでの調査を通して 
第3部 NGOによるUHCの取り組み (10の事例報告)
が、分かりやすく整理され、記述されています。

事例の中には私自身の関係するシェアの「カンボジア農村部乳幼児健診活動」や「HIV陽性在日外国人の医療アクセス向上」のことなども報告されています。個人的には、AMDA社会開発機構による、ホンジュラスの保健ボランティアが運営するコミュニティ薬局、アフリカ地域開発協力市民の会(CanDo)による、ケニアでの地域保健ボランティア(CHW)の住民参加型の選抜、研修、保健行政との連携などがとくに興味ふかく読めました。これは私自身、タイのマヒドン大学で1991‐92年にプライマリ・ヘルス・ケアを学んだとき、テーマにしたのが農村保健ボランティア(Village Health Volunteers)の役割意識、ヘルスセンターとの関係、薬共同組合運営などだったこととも関係があります。さらに、UHCの現場での実現を担保する存在として、保健ボランティアないしコミュニティ・ヘルス・ワーカー(CHW)の活躍が不可欠であることが、世界や日本の経験からほぼコンセンサスになっているからでもあります。
 
思い起せば、日本での先駆的なUHCの試みと言える、八千穂村の全村民健診活動は、村と佐久病院の共同事業として昭和34年から始められたものでした。そもそもは、「国民健康保険料」の5割分の窓口現金徴収に対する村民の猛反対(当時、米の収穫時期にしか、農民はまとまった現金収入を得ることができませんでした)に対して、仲の良かった井出幸吉村長(当時)と若月俊一院長が危機意識を共有し、それなら手遅れの病気を減らす努力を健診という形で始めてみようということになったようです。当時村には、「牛や馬の健康台帳は一頭一頭にちゃんとあるのに、人間サマにはないのか」、という自嘲を込めたユーモラスな逸話もあったと聞きます。この健診を普及し、住民への啓発活動を進める上で、八千穂村の「衛生指導員」と呼ばれるCHW(Community Health Workers)、または保健ボランティアの役割の大きかったこともよく知られた事実です。

世界に冠たる日本の皆保険制度(だいぶ綻びが目立つようになってしまいましたが)も昭和30年代の発足当初は、むしろ窓口現金徴収がネックになって、農民にとって、とんでもない制度だと酷評されていた現実も思い起こす必要があるのでしょう。

このことは、若月先生の「村で病気とたたかう」(岩波新書)にも記されていますが、佐久病院のホームページからも閲覧できるシリーズものの「衛生指導員ものがたり」に、興味深く叙述されています。この連続読み物は単行本化されていますが、佐久病院の健康管理事業の立役者である3人、松島松翠さん(名誉院長)、横山孝子(看護師)さん、飯嶋郁夫さんの3人による共同執筆になるものです。当事者にしか語れない貴重な証言記録になっています。下記のリンクからも閲覧いただけます。 

▼「衛生指導員ものがたり(8) 窓口徴収の反動運動の中で-八千穂村健康管理-」

UHCハンドブックは、とりあえず、NGO向けに編纂されたものと考えられ、ファーストステップとしては、適切なものだったと思います。頒布はしていないようですが、アフリカ日本協議会にお問い合わせいただければ、まだ残部が少しあるかもしれません。ただ、次の段階の課題としては、より広い、市民にとってUHCが身近なものになるよう、NGOや市民社会組織(CSO)、政府組織が、一層努力していくことなのでしょう。つまり普通の市民の腑に落ちるものに、UHCをしていくことです。稲場さん、外務省国際保健政策室の渡部明さん、JICAの杉下智彦さん、シェアの西山美希さん、上智大学の田中雅子さん、アジア砒素ネットワークの石山民子さんなど、このマニュアルの作成に大きな力を注いでくださった方がたに、さらなる頑張りをお願いしたいと思います。

それには、まずこのハンドブックをPDFファイル化して、AJFを始め各NGOのホームページ上で、自由に閲覧できるようにしていただくこと、また、一般市民向けの啓発的な集いを開いたり、分かりやすい配布物などを作り、権利としてのUHCが、人びとの意識に根づき、浸透していくように、努力していくことなのかな、と思いました。重ねて、優れた第一歩を踏み出してくださった稲場さんはじめ皆さんに感謝申し上げるとともに、今後に期待して今日の発信を終わります。

2015年4月23日

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?