Dr.本田徹のひとりごと(43)2012.8.14
海に向かっていのちの言葉を開く
- 二人の「ケセン衆」にお会いするの巻
7月15-16日の海の日の休みを使って、海ならぬ山の神と久しぶりに気仙沼を訪れ、プロジェクトKの皆さん(小松さん、西城さん、シェアの田中さん)や大木幸子さん(杏林大学の保健学部)、去年の震災救援活動でたいへんお世話になった、気仙沼市立病院の横山先生、地元の在宅診療でがんばっていらっしゃる村岡先生とも再会を楽しんできました。
いろいろお話したいことはあるのですが、今回は、二人のすばらしい「ケセン衆」についてご紹介したいと思います。ケセン衆とは、岩手県南東部の大船渡、陸前高田から、宮城県北東部・気仙沼、本吉くらいまでを含む沿岸地方、旧・気仙郡に住み、共通のことばとしてケセン語(後述の山浦玄嗣さんの造語)を話す人びと、くらいの大雑把(おおざっぱ)な意味で、ここでは使わせていただきます。
ケセン衆の一人は、鈴木英雄さん。すぐれた川柳詠みで俳号は「日出男」といいます。気仙沼には多い、半農半漁の暮らしをしてきました。77歳の今もかくしゃくとして、仮設住宅に住みながら、若布(わかめ)の養殖に精を出しています。震災で家も田畑も失うまでは、牡蠣(かき)の養殖や農業にも従事していました。シェアが支援する現地のNPO「プロジェクトK」の事務所の常連で、いつも皆を励まし、明るい笑顔で包んでくださっています。しかし、運命の2011年3月11日には、彼の家にも悲劇が訪れます。階上(はしかみ)地区にある若布の作業場で、鈴木さんは奥さんや何人かの地元婦人と仕事をしていました。作業の後、婦人たちは先に帰りますが、奥さんはその日体調がすぐれず、寒がっていらしたそうです。自宅近くまで戻ったところで、大地震が起きます。津波の予報は出ましたが、まさか海からかなり離れている自宅にまで押し寄せてくるとは、鈴木さんもつゆ思いませんでした。岸にもやってある漁船のことも心配だし、当時は家々が立ち並び、自宅からは海は見えなかったので、奥さんには毛布をかぶせ、温かくして車中で休んでいてもらい、自分だけ別の軽トラックに乗り換えて、津波の様子を見ようと、港のほうを目指します。途中まで行ったところで、大津波がすべてを呑み込む高い壁となって、恐ろしいスピードで黒々と押し寄せてきます。鈴木さんは奥さんのところへ戻ることもできず、そのまま陸のほうへ車を走らせ逃れました。そのことで鈴木さんは、今に至るまで大きな悔いにさいなまれることになります。奥さんは、津波が来ることを知り、車を離れてしまったようで波にさらわれてしまいます。結果として車は流されず、車内もほとんど浸水していなかった由です。いまとなっては繰り言ですが、もし奥さんが車に残って窓をしっかり閉めていれば助かったかもしれなかったわけです。ほんとうに一瞬の判断が生死を分けたことになります。それだけ一層、鈴木さんの淡々とした語りの中に、残された者の深い哀惜の思いが隠されているのでした。奥さんのご遺体は1ヶ月も経ってから、対岸の大島で見つかったそうです。
川柳詠みとしての「日出男」は、10年以上前から、地元紙「三陸新報」の文芸欄への常連の寄稿家で、多数の句が入選しています。
まっさきにご紹介したい、震災前に愛妻を詠んだ秀句があります。
・マニキュアも指輪も知らぬ草取る手
家事や子育てから、野良仕事、そして亡くなる直前まで精を出していた海の仕事に至るまで、鈴木さんにとって、奥さんは、人生の大半のときを共に過ごしてきた、かけがえのない伴侶でした。でも振り返ってみると、楽をさせてあげたり、美しく着飾らせてあげることもなかったなと、愛情に満ちた視線を妻のたくましい手に注いでいるのです。
今年1月の月間最優秀句に選ばれたのは、次の句でした。
・初夢は俺が舵取る宝船
津波で失った漁船を取り戻し、もう一度恵みの海に漕ぎ出そうという、日出男さんの「男子の本懐」がユーモラスに描かれています。
それ以外にも、彼の風刺と諧謔の精神が横溢し、老いの日々の自己を静かに可笑(おか)しく見つめる句がいくつもあります。
・管蹴りと椅子取りゲームの永田町
・お目出度う新郎妊婦のご入場
・厚着して早寝遅起きこれもエコ
・五時からは黄門様と差しで飲み
・ブイサインしながらビリでゴールイン
荒ぶる海に最愛の妻のいのちと、家を根こそぎもっていかれながら、その後も人としての誇りを失わず、海と対話を続ける日出男さんを、私はあっぱれな男だと、心の中で讃嘆したのでした。
山浦玄嗣(はるつぐ)さんは、自身で九代目という代々の医者の家に生を享けました。先祖は信州上田原村の村医者だったとか。「ところが、爺(じい)さんの代に零落して、東北に逃れてきたんですよ」と、すばらしい笑顔を浮かべながら、大船渡のお宅を訪れた私たち夫婦を前に語っておられました。白いものが混じり、長くなった後ろ髪を無造作に髷(まげ)のように束ねた、山浦さんの風貌は古武士そのもので、私は内村鑑三が、「代表的日本人」かなにかに書いていた、真の武士道にキリスト精神を接ぎ木した人格こそ最強である、といった意味の言葉を思い起こしてしまいました。幼年時にカソリック信者としての洗礼を受け、大船渡で育った山浦さんは、大工の息子イエス(ケセン語でヤソ)を、昔から寺社建築や船の大工として全国に令名が響き渡っていた「気仙大工」と重ね合わせてイメージしてきたということで、そう言えばリアス式海岸の気仙地方の入り江は、ガリラヤ湖のようにも見えたことでしょう。なんとイエスの福音をケセン語に翻訳したいというのが、幼いころからの山浦さんの夢だったということですから、まさに「後生(こうせい)畏(おそ)るべし」と言えます。
ケセン語を気仙の人々自身がどう考えてきたかについて、山浦さんは以下のように洞察しています。「『し』も『す』も区別しないケセン語風の音韻、独特のアクセント、そのことばは醜悪なズーズー弁と呼ばれ、嘲笑され、差別されてきたものでした。公の場などでは絶対に出してはならない、社会の恥部だと考えられてきました。」(ケセン語訳新約聖書 マタイによる福音書・序 「イー・ピックス出版))
山浦さんが、大船渡教会の献堂25周年(1978年ころのこと)の式典に、はじめて「山上の垂訓」のケセン語試訳を朗読したところ、小山サクノさんという老婦人が彼を呼び止め、こう語ってくれたそうです。
「いがったよ! おら、こうして長年教会さ通(あり)ってね、イエスさまのことばもさまざま聞き申してきたどもね、今日ぐれァイエスさまの気持ちァわかったことァなかったよ!」このような、気仙のヤソ信者の励ましを支えに、山浦さんは、福音書四書のケセン語訳を完成させるという偉業を成し遂げていったわけです。
私自身は、ヨハネによる福音書がとくに気に入っていて、毎朝のように、山浦さん自身の温かい、親しみに満ちた声で吹き込んだCDを聞いてから仕事に出るのが最近の習慣となってしまいます。ケセン語訳の福音書を山浦さんは何年もかけて吹き込んだのですが、自室に物干し竿(さお)で櫓(やくら)を組み、毛布を何枚も重ねて完全防音の仕掛けを作り、その中に録音機やマイクを持ち込んで閉じこもり、汗だくになって作業したということです。なんだか噴き出してしまうくらいユーモラスでありながら、神々(こうごう)しさを感じてしまう光景です。
山浦師の聖書研究の徹底ぶりと、最良の遊びの精神がただものでないと思ったのは、古代エルサレムの神殿(ヘロデ神殿)を、さまざまな資料に基づいて、紙細工の精密な縮小模型として復元したことです。この模型を指しながら、イエスのエルサレム神殿での振る舞いなどを説明してくださる、山浦さんの少年のような無邪気さに、ただただ脱帽するしかありませんでした。
山浦先生は、演劇活動にも熱心で、ご自分で地元のボランティア劇団「竈(かま)けァし座」を主宰していたということです。ただ、残念なことに、去年の大震災で多くの団員が家をなくして散り散りになったり、病を得て亡くなったりで、現在開店休業の状態に追い込まれているようです。「竈けァし座」という珍しい名の由来について、同じケセン衆の小松治さんに聞いてみたところ、「竈けァし」は、おそらく「かまどけし」の事ではないか、ということでした。「かまどけし」とは、「破産者」や「家に住めなくなった人」の意味となります。つまり、ご飯を炊く「かまど」の火を消す、または、「かまど」を「返す(けぇーす)」のどちらかなのだろうと、小松さんは言います。さまざまな試練に遭い、流亡の暮らしを強いられてきたこともあるケセン衆の境遇やイエスの生涯に寄り添いたいという思いを、山浦さんは「竈けァし」ということばに託したのかもしれません。「竈けァし座」のために彼が書き下ろした劇が「チンメァロの花」という作品(2001年盛岡で初演)で、私も台本をいただき、早速読んで感銘を受けました。明治2年の気仙郡が舞台で、ハンセン病(癩)に冒された人びとの苦難と勇気と愛を描いています。山浦さんによると、ケセン語で癩(らい)は「ドス」と呼ばれ、かつては不治の遺伝病と思われていました。そのためこの病気を出した家系は「ドスマギ」とさげすまれ、「癩病人は家を追われ、乞食となってさすらい、路傍に斃死(へいし)するのが常」(ケセン語ヨハネによる福音書・解説)だったそうです。そういう時代の中にも人間どうしの連帯の火は消えていなかったと、山浦さんは訴えたかったのでしょう。私の恩師の若月俊一先生が、秩父事件の首謀者・菊池貫平を芝居に書いて、佐久の人々に演じて見せ、農村の民主化を問うたのに通じる精神を、この作品から感じました。山浦さんは、聖書に頻出する<癩>などのいわゆる差別用語や不快表現を、「重い皮膚病」といった曖昧(あいまい)なことばで言い換え、現実を糊塗(こと)してしまうことに反対します。
「ケセン語の世界では、こうしたいわゆる不快用語なるものに人々はあまり頓着しません。この地方では、昔から村落共同体の人情が素朴に堅固に保たれていて、多くは、みな、先祖代々の親戚であり、隣人であり、友人でありますから、自分たちの仲間の不幸を嘲笑したり、軽蔑したり、差別したりするという風がないのです。このことはケセン人がかなり誇りに思ってもいいことではないかと思います。」
「最後に申し添えましょう。ケセン語聖書ではイエスのことを『ヤソ』と言っています。実はこれこそがかつてわれわれの社会におけるひどい差別用語でした。キリスト教徒は昔はキリシタンと呼ばれ迫害され、近過去にはヤソと呼ばれ国賊の扱いを受けたのでした。その忌み嫌われた名前をわたしはイエスのケセンにおける名前として採用しました。なぜならそこにこそ神さまの『栄光』があると福音書は言うからです。」(ケセン語訳ヨハネの福音書解説「不快用語の扱いについて」)
以上の山浦さんの「覚悟」を知っていただければ、彼が、盲人をあえて「めぐら」と呼ぶことも理解できます。
「さで、ヤソァ、通り掛(が)かりに、生まれ付き目(まなぐ)の見えねァ人さ行(い)ぎ会った。弟子等(ですァど)ァ、ヤソァ許(もっ)さ聞いだ。
『ラビィ、この人ァ生(うま)れ付(づ)ぎ盲人(めぐら)で生れたのァ、誰ァ悪(わり)い事(こど)ォすだ所為(そい)でごァせ? この人すか、それども親等(おやァど)だべが?』
ヤソァ答(こで)ァやった。『この人ァ悪(わり)ィ事(こど)ォすた訳(わげ)でもねァす。親等ァ所為でもねァ。神様のすやった事ァこの人の身に起ぎるためだ。』」
(ヨハネによる福音書 9:1-9:3)
この一節を鈴木英雄さんに聞いていただきました。じっと目を閉じて、「まなぐ」というケセンのことばを含む山浦さんの語りに深々と聴き入っておられる姿が印象的でした。
なお、山浦さんによると、チンメァロは和名オオウバユリだそうで、以下の説明をいただきました。
ユリ科の多年草。ウバユリの変種。地下の鱗茎から約1mの丸く太い茎が直立し、7月、8月に茎頂に数個の緑白色の花を横向きにつける。花は筒状で開かず、長さ9-13cm。本州中北部から北海道、南千島、樺太の落葉樹林内に生える。日当たりの悪い湿っぽい落葉樹林の中にひっそりと陰気に咲きます。
つまり、世の中を憚ってひっそりと生き続けなければならなかった、当時のハンセン病の患者さんたちの姿を、チンメァロの花に仮託したというわけです。
また後日山浦さんに伺ったところ、「竈けァし」は彼の率いる劇団が初めて手がけたケセン語劇の題名によるそうです。その劇というのは新約のルカ書15章11節~32節にある「放蕩息子の譬話(たとえばなし)」を、気仙を舞台にして書き換えたもので、「放蕩息子」が家の財産を消尽する「竃けァし」になったのでした。この山浦さん原作の劇作もいただき、拝読しましたが、大変面白く、また涙なしには読み進められない出来栄えのお話でした。
ケセン衆の優れた人品(じんぴん)と、その味わい深い言葉に心からの感謝と敬意を表しながら、今回の旅行記を終わらせていただきます。
(2012.7.29)
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