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Dr.本田徹のひとりごと(42)2012.7.12

 以下の長い文章は、フリーランスのジャーナリスト佐藤幹夫氏が個人編集する思想誌「飢餓陣営」2012年春号(通算37巻)「3.11をめぐる言説と被災地ケア」に掲載された私の記事を、佐藤氏のご厚意でシェアのホームページに転載させていただくものです。前回の「Dr本田のひとりごと(39) 東ティモール日記(第一回)「ダン医師聴聞記より : 鷗外の『假面の告白』と結核百年のスティグマ」に次ぐものとなります。

東ティモール日記 (第二回)

子どもの栄養失調問題と保健教育 - 
デビッド・ワーナーが運んできた豊かな「種」
2011年10月30日-11月12日 アイレウ、ディリ

1.子どもの栄養問題と国の開発

 ほぼ毎年私が、所属NGOの仕事で訪れている東ティモールでいま、医療保健上の最大の課題はなにかと問われたならば、子どもの栄養失調問題の解決と迷わず断言するだろう。もっともこれは、世界中の開発途上国にとって多かれ少なかれ共通の問題であり、だからこそ、2000年の国連主催のサミットで2015年までに達成が掲げられた、ミレニアム開発目標の中でも、子どもの健康改善は、主要8項目のうちの1つとして重視されているのだ。

しかし、東ティモールでは他の途上国より事態はもっと深刻だ。ユニセフの世界子供白書2011年版でも、中等度から重度の栄養失調の子ども(5歳以下)の割合は、この国の子ども全体の49%に及ぶ。慢性的な栄養失調の結果として生じる発育阻害(Stunting)、つまり、背の伸びが損なわれた子どもの割合も、54%と周辺のアジア・太平洋諸国と比べて突出して高い。5歳未満児死亡率など、子どもや母親に関する種々の保健指標の改善が世界で最も困難な、「内戦国家」アフガニスタンに並ぶほど、栄養失調児の割合は高くなっている。統計の取り方、信頼性の問題は、途上国では常に問われることになるが、それにしても、私たちが村の中を回っても、確かに痩せこけた子どもたちが多いことに驚かされる。

しかし、2002年に独立を果たしたばかりの東ティモール政府がこの問題に無策であったわけではない。インドネシア軍占領下(1975-1999)の過酷な統治に抵抗してきた経験を持つ東ティモール人は、一般に誇り高く、カソリックの信仰に篤く、自主独立の気風に満ち、政府も医療や教育など民生面の改善にはそれなりに力を尽くしてきた。一方、国に産業らしい産業がほとんどなく、自給自足型の農業が基本で、コーヒー栽培のみが換金的農業と言える。山がちの地形が海岸まで迫るため、沿岸の狭い町部を除き、国土の大半は熱帯の森林で覆われ、その中に疎に集落が展開する。雨期の11月―4月にはしばしば道路が冠水するため交通は途絶し、医療へのアクセスも極度に悪化する。近年オーストラリアとの国境のティモール海に原油資源が発見・開発され、石油収入がもたらされるようになったが、20-30年で枯渇する可能性のあるこの資源を十全に活用し、長期的な国家経営戦略を練っていくのは容易ではない。今年、発表された20年にわたる野心的な国家開発戦略計画(Timor-Leste Strategic Development Plan:2011-2030)でも、貧困を削減し、人々の生活・医療・教育を改善し、石油収入に頼らない豊かで平和な国造りを目指している。

ディリのワークショップで歯の衛生について話すデビッド(2011年11月)

2.シェアの保健教育活動とプライマリ・ヘルス・ケア - 
師表としての若月俊一、デビッド・ワーナー

 NGOシェアは、1999年に初めて、独立をめぐる騒乱後のこの国に救援の形で入ったが、2002年以来、山間部のエルメラ県、次いで、アイレウ県において、腰を据えて地域の保健教育活動(Health Education)に取り組んできた。 

途上国での医療や保健分野の支援は、一般に災害時の緊急救援的な活動から、徐々に、息の長い社会開発的な活動に移行していくことが多い。後者においては、地元の保健行政機関や保健センターと言われる公設の診療所と協力しながら、住民とくに母子の健康改善活動や小学校の教室で行われる保健教育、参加型のトレーニングや人材育成(とくに保健ボランティア)を行っていく。私たちの場合も、2002年から、エルメラ県で、まずフリップ・チャートと呼ばれる、紙芝居のような、絵入り教材を作ることから始めた。マラリア、栄養失調、寄生虫症、下痢、はしか(麻疹)、貧血といった地域で重要な病気についての分かりやすい絵を描き、絵の裏側に現地のことばテトゥン語(または公用語のポルトガル語)で説明文を記したもので、一枚一枚めくりながら紙芝居をするように住民や子どもたちに見せていく。この教材は高い評価をいただき、他地域のNGOや公的保健セクターでも使われている。こうした、だれにでも練習すれば使える、簡明な視聴覚教材をもとに、保健センターの職員(看護師など)、小学校の先生、一般の村の保健ボランテイアなどを保健教育者として養成していくことを目指して、私たちは活動してきた。

追い風となったのは、2007年から、テトゥン語でシスカ(SISCa)と呼ばれる包括的地域母子保健活動が、国の保健政策の一環として位置づけられ、全国でこの活動に従事する、村落保健ボランティア(Family Health Promoter)が住民の中から選抜され、トレーニングを受け、地域で活動するようになったことだ。もっとも全国とは言っても、13ある県のうち取り組みの進んだ県とそうでない県があり、シェアが展開するアイレウ県は、シスカの活動では国全体の先導的な役割を果たすようになっている。村落保健ボランティアが行うもっとも重要な仕事は、それぞれの村で月一回くらいの頻度で開かれるシスカ(健康相談会)になるべく多くの母子に参加してもらい、子どもたちの体重測定を行い、日本の母子手帳に当たる小さなノートの体重曲線グラフに、その子の成長記録を記し、必要な予防接種を施し、妊婦の検診をし、虫下しやビタミンAや造血剤(主として妊婦用)などを配り、栄養や病気の相談に応じ適切な指導を行うことだ。こうしたシスカの活動は、村落保健ボランティアと地域の保健センターのスタッフ(通常は看護師)が協力して行っていく。

途上国の、保健教育をはじめ、地域で住民を主体に行っていく基礎的保健活動は、1978年にWHOの呼びかけで、旧ソ連邦カザフ共和国の首都(当時)アルマ・アタに140カ国の代表が集まって開催された会議と、そこから発布されたプライマリ・ヘルス・ケアに関するアルマ・アタ宣言に拠っている。この歴史的宣言は、ソ連で開かれたということに象徴されるように、東西冷戦の緩和の時代に生まれた。従来の西欧的近代化をモデルとする経済重視の開発を、人間中心の開発に変えていこうとする、開発パラダイムの転換を求める時代の空気を反映した、理想主義の産物だった。この理想主義をもっとも端的に示すスローガンこそ、’Health For ALL’ (すべての人に健康を)という言葉であった。

アルマ・アタ宣言には4つの原則がある。1)「外」からの押し付けでない、地域住民自身のニーズに基づく保健活動であること。2)住民参加、自己決定権、人権としての医療の保障。3)地域にある社会資源(ひと、もの)の有効活用、4)医療だけでない、農業・教育・水利・通信・メディアなど多分野間の協力・協調。

アルマ・アタ宣言は、具体的な活動項目として、次の8つを重視した。1)適切な栄養摂取と安全な水の十分な供給・確保、2)基本的な環境衛生の確立、3)家族計画を含む母子保健、4)主な感染症に対する予防接種、5)風土病の予防と治療、6)主要な保健問題への対策と教育活動、7)日常的な病気とけがの手当て、8)必須医薬品の整備、供給。

一言で言えば、プライマリ・ヘルス・ケアが目指したのは、医療の主人公は住民自身であること、社会正義や公平性が医療や保健においても実現されなければならない、といったことであった。

この宣言の求めるところは、20世紀最後の20数年間、途上国はもちろん、ヨーロッパ、カナダ、オーストラリアなどの西側諸国においても、保健政策や地域保健の重要な指導理念・アプローチとなってきた。

保健ボランティアが行う保健教育活動は、アルマ・アタ宣言の原則の3番目にある、地域の社会資源の有効活用を実行に移したしたものだが、大きなモデルになったのは、文化大革命前後の中国で、毛沢東の号令のもとに生まれた、「はだしの医者」(赤脚医生)だとされる。皮肉なことに、東西冷戦緩和の時代、中国とソ連という2つの社会主義大国は厳しい対立関係にあり、プライマリ・ヘルス・ケアのお手本と見做されてきた中国は、アルマ・アタの会議に代表を送っていない。

プライマリ・ヘルス・ケアや、それを地域で支える村落保健ボランティアの活動については、実は、日本にも海外にも、すぐれたお手本、パイオニアがいた。

一人は信州の地で佐久総合病院を率いて、戦後、日本の農村医療を理論面でも実践面でも50年以上に亘って導いてきた、若月俊一。優秀な外科医でありながら、若月は敗戦直後の日本の農村に数多くの患者が存在した結核、脳卒中、寄生虫症、そして農夫症と彼自身が命名した、農作業関連の運動器疾患などのケアにおいては、治療と並んで、あるいはそれ以上と言っていいほど、予防や住民啓発活動が重要であることを痛いほど認識し、昭和20年代から村の中に入り、衛生や病気をテーマにした芝居を見せ、テレビのない時代の村人に娯楽を提供しつつ、健康の維持・増進に必要なメッセージを伝え続けた。また、旧・八千穂村で昭和34年(1959)に始まった全村健康管理活動は、住民に暮らしの中で健康を重視する意識を定着させ、胃がん、高血圧、糖尿病などの疾病の早期発見・早期治療を促し、結果として、村の医療費を下げ、後に長野県を、もっとも低い医療費で日本一の健康長寿の県へ押し上げる原動力となった。こうした予防・健診活動の先頭に立って働いてきたのが、八千穂村に始まった「衛生指導員」という村落保健ボランティアで、彼らの活動史は、最近佐久病院から出版された「衛生指導員ものがたり」(松島松翠ほか共著)に詳しい。この本を読むと、佐久地域の住民健康改善にとりくんできたのは病院職員や役場の保健師ばかりでなく、村に住む無名のボランティアたちであったことに感銘をうける。また、現今の途上国の保健活動と共通の課題が、当時の日本にあったことを知り、佐久の農村ボランティア活動に、途上国の住民にとっても参考になるような事例が生々しく語られていることにも驚嘆したのである。

若月の作った1幕ものの「いけどり」という作品は、人の腸の中を舞台にする擬人劇である。腸に住みついた3匹の回虫を脇役に、主人公の駆虫薬サントニンが、人の腸から栄養を横取りにして悦に入っている回虫どもを懲らしめるという、楽しい筋立てだ。私はこの話はきっと東ティモールでも受けると思って翻案化し、2004年に訪れたとき、テトゥン語版の劇にしてもらい、小学校などで上演したが、結構子どもたちは楽しんでくれ、いまでもシェアの学校保健教育の現場で、ロールプレイ(保健教育劇)の定番として使われている。若月の恩沢がこんな形で遠く離れた島国に生きているのを見るのは、弟子の末席に連なる者として嬉しい限りだ。

アルマ・アタ宣言が出される30年以上前から、佐久病院は正統的なプライマリ・ヘルス・ケアの活動を始めていたことになる。若月は、プライマリ・ヘルス・ケアの日本での受容について、1979-83年、筆者が佐久病院で世話になっていた頃、こんな意味のことを酒の席でよく語っていた。「本田君は、チュニジアでプライマリ・ヘルス・ケアを勉強してきたのだろ。ところでこの日本のことだがね、アルマ・アタの会議の後、プライマリ・ヘルス・ケアを日本に輸入するとき、武見太郎大先生(当時の日本医師会長)は、ヘルスという言葉を抱き合わせで入れることはまかりならぬと考えたのだよ。ヘルスというのは、要するに住民が中心、予防重視ということでしょう。さらに、看護婦にもっと権限を移譲するといったことも含んでくる。それは、医師中心のヒエラルキーや既得権を脅かす危険思想だと、頭のよい武見先生はアルマ・アタ宣言を読んですぐ察知されたのだね。彼はたいへんな勉強家ですからね。それで、厚生省にもにらみを利かせて、プライマリ・ヘルス・ケアは、ヘルスを除いて、プライマリ・ケアという言葉で輸入させたのだよ。その意味では、本来のアルマ・アタ宣言は、その魂を抜かれて日本に入ってきたのだと言えるね。」

改めて、若月の仕事の大きさと、プライマリ・ヘルス・ケアに対して彼が持っていた卓見に脱帽する思いである。

もう一人、過去40年間以上に亘って世界中の途上国の保健ボランティアの活動に偉大な影響を及ぼしきた人物にデビッド・ワーナー(David Werner)がいる。もと生物学の教師だった彼は現存のアメリカ人で、今年77歳になるが、いまだに、途上国とくにメキシコを中心としたラテン・アメリカ各国で優れた草の根保健指導者として、理論的また実践的な活動を続けている。彼が、1960年代から、メキシコ西部のシェラ・マドレ山麓の寒村で、農民たちとともに築いてきた、地域住民主体の草の根保健活動は、1970年代に「医者のいないところで」(Where There Is No Doctor)というプライマリ・ヘルス・ケアの手引き書として結実し、途上国を中心に百近い言語に訳され、数百万部が草の根保健ワーカーに活用され、欧米の家庭医学書としても重宝されてきた。デビッドは、幼少期から自然観察が好きで、野生の動植物の絵を描くことに没頭し、青年時代、京都で禅僧について水墨画を本格的に学ぶこともしている。こうした絵画への素養・才能が、彼を、絵を用いた、分かり易い保健教材の開発という分野に向かわせたのは幸運なことであった。

デビッドは、先天性の末梢性筋萎縮症を持つ障害者で、小学生時代などにいじめに遭った経験をもっているため、病や障害を持った者に対する共感がとくに深い人と言える。メキシコで彼は、草の根保健活動と並んで、地域リハビリテーション(CBR: Community-based Rehabilitation)の開発者となり、こちらの面でも、世界的な名著、「村の障害をもった子どもたち」(Disabled Village Children)を書いている。

3.デビッド・ワーナーを東ティモールに招き、ワークショップを開く

 NGOシェアが、28年間途上国や日本でプライマリ・ヘルス・ケアに基づく保健活動を続けてくる過程で、一番影響を蒙り、教材作りなどで種々のアイデイアや手本をいただいてきたのが、ほかならぬデビッドであった。2009年に私たちは彼の主著「医者のいないところで」を発刊し、これにあわせて彼を日本に招き、東京や佐久で講演会を開いた。

今度は、ぜひデビッドを東ティモールに招いて、さまざまな母子保健課題を抱えるこの国の現状を自身の目で見てもらい、意見・助言をいただきたい。村落保健ボランティアや学校保健担当の小学校教師たちとも会ってもらい、保健省や教育省といった、子どもや母親や障害者の保健・福祉に責任を持つ部署の関係者ともぜひ意見交換をしてもらいたいという願いのもとに、1年をかけて計画を練り、彼にも打診した。もともと、インドネシア軍の圧制に対する東ティモール民衆の粘り強い抵抗運動に深い共感を抱いてきた彼は、二つ返事でこの提案を受け入れ、訪問の数ヶ月前から猛烈に東ティモールの歴史・社会・政治・文化・保健のことを勉強し、備えてくれた。デビッド・ワーナー招聘プランを実現するには、財源的な裏付けが必要だったが、幸いなことに、2010年10月にシェアが団体として、第5回沖縄平和賞をいただく栄に浴し、この価値ある賞の意義を生かす意味でも、アジア・太平洋の国々の一つである、東ティモールの平和や生命尊重につながる企画として実現させようということになった。

十月末に、デビッドは首都ディリに到着し、その日のうちに、バイロピテ診療所のダン所長(前回の「東ティモール日記)の主人公」)にも引き合わせた。ダンはかねてデビッドの仕事を尊敬し、今回のデビッドの首都ディリでの講演会でも通訳を買って出てくださった。モザンビークで数年働いた後、東ティモールでも14年にわたり献身的な医療活動を続けてきたダンにとって、テトゥン語もポルトガル語も、自家薬籠中のものである。

デビッドの2週間に及ぶ東ティモール滞在中、最初の1週間はアイレウ県でシェアの活動現場の視察、小学校での保健教育実習、村落保健ボランティアを対象とした講演会兼ワークショップなどを精力的にこなしてもらった。後半の1週間は、首都のディリで、国レベルの保健政策責任者や援助関係者らを対象とした講演会・ワークショップを開くことに精力を傾注した。77歳という年齢には見えないほどの、デビッドの若々しい好奇心、地域の人々に対する共感、この国の小児保健問題の真因を究明しようとする気迫には圧倒される思いだった。

彼がもっとも関心を寄せ、問題解決のためになにをすべきか、提案・助言してくれたのは、やはり乳幼児の栄養失調だった。村落保健ボランティア向けのワークショップで参加者が見せてくれた、高い意欲や向上心に感心しつつ、デビッドは、シスカがアイレウで始まって3年以上経つのに、地域の子どもの栄養失調がほとんど減っているように見えないのはなぜか、検証や評価が必要だと考えた。

デビッドが冷静で批判的な視線を注いでいたのは、ある村のシスカの見学のときだった。村の子どもたちの多くが栄養失調状態にありながら、しばしば保健センターのスタッフも保健ボランティアたちも、ただ体重を測っているだけで、数か月以上体重の伸びが鈍化していたり、減っていた場合でさえも、記録をつけるだけに終わり、母親に指導したり、治療的介入をすることをしないまま(できないまま)放置している。これではなんのためにシスカはあるのかと、彼は危機感を持ったのである。

シスカの最初期には、正確に体重を測り、数値を正しく母子手帳に記入できるようになることが、保健ボランティアに求められる一番大切な仕事だった。トレーニングの結果、それが曲りなりにもできるようになってきた現在、今度は発見した栄養失調児をどう助けてあげればよいのか、母親に対してどんな指導をしたらいいのかなど、新たな壁にぶつかっていると言える。

栄養失調問題の背景や原因を探る意味で、デビッドが勧めていたのは、コミュニティ診断(Community Diagnosis)とか、参加型疫学・研究(Participatory Epidemiology& Research) といった、住民や保健ボランティア自身が参加するかたちでの調査・研究である。とくに彼がフォーカスすることを求めていたのは、①離乳期の開始や終了時期、離乳食内容の変化、貧困による影響、離乳食の調理の仕方、土地の伝統的な食習慣についてもっと深く知ること、②多くの途上国の乳幼児の疾病率、死亡率に影響する二大原因である、肺炎と下痢・脱水症の診断、治療について、ごくシンプルな方法で母親や保健ボランティアが危険を察知して、行動を取れるようになること、③母乳などを通して子どもたちの栄養状態に直接影響が出る母親自身の貧血・栄養問題へのアプローチ。

これらについて、デビッドは自身の関わった、メキシコ、北東インド、シェラレオーネ(アフリカ)、ニカラグアなどでの豊富な活動経験に基づいて、いくつか、傾聴に値する助言をしてくれた。離乳食については、これは仮説だとしながら、デビッドはもしかしたら、アイレウなどの山間部のコミュニティでは、一番裕福な母親たちは「SUN」(スン)というブランド名をもつ離乳食製品を買うのではないかと考える(1箱50セントもする)。それが買えなくなると、米の粥(ただし緑黄野菜を刻んで混ぜたり、食用油を少量いれて、カロリー価を高めるなどの工夫がどこまでなされているか不明)、さらに米の入手が困難な家庭では、米をうんと減らし、水分を多くした粥で、子どもの胃を膨らませ泣きやむようにさせる。米がまったく買えない家庭では、キャッサバやタロ芋を使っているようだ。しかし、キャッサバやタロ芋は繊維分が多く、乳幼児の胃には消化が大変。こうした離乳食をめぐるさまざまな連鎖が、その家の経済状態やローカルな食習慣によってどう修飾され変化していくのか、まさにお母さん自身に聞いてみるべきことだろうとデビッドは言う。

貧しい母親がタロ芋やキャッサバを離乳食に用いらざるをえないときどうするか。その場合、どんな調理上の工夫ができるかの助言も大事だ。ひとつのヒントとして、デビッドは、エジプトなど中東、アフリカでは、粟(アワ)やとうもろこしを醗酵させた、酸味のある粥を離乳食として使う伝統もあるのだという。西欧的な教育を受けた栄養士は、こうした醗酵食は子どもの消化器にはよくないし、味の点でも受け入れがたいと批判するが、地元の人たちはそれで長年子どもの下痢や栄養失調を直してきたという。ヤギをつぶしたあと、その胃(第二の胃)を切り取り、胃の中にある醗酵菌をとりだし、醗酵食作りに利用する。アワ(millet)の団子をこの醗酵菌を使って作り、団子を屋根で日干しにすると石のように硬くなる。これは食品として半永久的に使えるし、削って溶し下痢の子どもの脱水症治療にも利用できるという。デビッドは、こんな印象的な言葉を語っている。

“Fermentation is poor people’s refrigerator” (貧しい人たちにとって、醗酵は冷蔵庫の代わりをしてくれるのだよ)
さて、東ティモールにおいて、たとえばタロ芋を使った醗酵食が、子ども用に作れるのかまったく未知数だが、そうした可能性も含め、地域の人々が主体的に追求してくれることが、小児の栄養問題の解決に一番必要なのだとデビッドは確信する。

ディリのワークショップ会場にて: 右よりデビッド、Drダン、本田

4.結びとして: 東ティモールの明日の保健教育

 さまざまな人と人の出会いを生み出し、新たな保健教育の課題や方法を生き生きと示しながら、「種蒔き人」デビッド・ワーナーの2週間に及ぶ、東ティモールでの豊かな活動は終わり、11月12日、彼と私は連れだってディリ空港を飛び立ち、シンガポール経由でそれぞれの国に帰った。この文章には書ききれなかった、チャイルド・トゥ・チャイルド(Child-to-Child)という、重要な保健教育手法や、その背景にあるブラジルの教育学者・哲学者パウロ・フレイレの思想、ドル経済圏に組み込まれたこの国に迫りくるHIV・エイズを、学校やコミュニティの保健教育の場で、カソリックの伝統や価値観と折り合いを付けながら、どのように進めていくべきなのか? これらの重要なテーマについては、改めて報告する機会をもちたい。

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