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Dr.本田徹のひとりごと(57)2015.5.21

5年ぶりのタイ訪問記 -高齢化社会の到来とコミュニティでの包括的な取り組みを見て-


1.はじめに

 5月3日から9日まで、念願であったタイへの5年ぶりの出張が適い、大変うれしく、おいしく、なつかしく、そして学ぶところの多い旅となりました。
さかのぼれば、工藤芙美子さんがヤソトン県シケウ村で下痢予防の活動していた1990年代前半には、私自身、マヒドン大学のAIHD(アセアン保健開発研究所)でプライマリ・ヘルス・ケアのマネジメントに関わる修士コースに1年間留学しており、農村保健ボランティア(Village Health Volunteers: VHV)の調査で足繁く、ウボンラーチャターニー県(以下、ウボン県)の田舎に入りこんでいました。
 前回訪問した5年前は、タイの政治と社会を真っ二つに割る、タクシン派と反タクシン派の対立・抗争が深刻化していた時期でした。この対立を、議会制民主主義の枠の中で、対話と妥協を通して解決できなかった結果、いまタイは再び軍政下に置かれ、表面的には落ち着きを取り戻しています。しかし、都市と農村の間の構造的矛盾は依然として、根深いところで続いている上に、国王の健康問題や王位継承問題、中国の台頭に象徴される地政学的な挑戦、高齢社会の到来など、さまざまな課題にタイ社会は直面しています。それでもタイの人々が、持ち前の楽天性と粘り強さで頑張っている姿に、改めて敬意と親しみを深くしました。

2.MSMの活動と家庭訪問

 今回私は、まずケマラートでMSM(Men who have Sex with Men、以下MSM)と呼ばれる男性同性愛の若者たちの活動を見せていただきました。シェアから3年前に独立しタイの財団となった、HSF(Health and SHARE Foundation、以下HSF)の事務所に5月4日、MSMのリーダーたちがつどい、皆で活動の計画を立てようとしたのです。HSFのスタッフである、ノイさんやトムさんもファシリテータとして、議論の進行・整理をお手伝いしていました。その活動とは、CDC(感染症対策センター)の助成金をもらって、ケマラート郡内のいくつかの中学校で、生徒たちを対象に始める予定の、保健や性教育に関わる活動です。このような活動を必要とすることになった、東北タイ農村部の学校で起きている変化を、私は興味深く聴きました。多くの中高生が、いまや携帯電話やスマートフォンをもち、LINEやFacebookを使って友達同士で通信を交わしたり、あるいはアルバイト探しに利用したり、さらには売買春や覚せい剤使用やヒューマン・トラフィッキングなどの犯罪に巻き込まれるきっかけとなってしまうことも、見られるようになった由です。
実際、テイーンの女の子の妊娠、援助交際などの事件も起きています。また、学生たちの中には、自らの性について、マイノリティとして自覚しながら、誰にも打ち明けられず、LGBT(レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダー)としてのアイデンティティを確立することに、大きな困難を抱えている場合もあると聞きます。
そうした学校にMSMの若者が出向き、性についてのさまざまな差別をなくすための啓発活動を行い、感染予防のための正しい知識や行動の仕方などを、参加型のやり方で、生徒や先生たちと教え合い、学び合っていこうとしているさまは、日本よりある意味で進んでいると言えます。まだまだ、MSMのリーダーたち自身、しっかり社会の中で受容されたとは言えないと感じている現状で、でも子供たちに自分らが耐えてきたのと同じような辛い思いをさせたくないと、大きな使命感をもって、新しい活動に取り組もうとしている、真摯な姿勢やその明るさ、仲間同士の連帯感に、私は深く感銘を受けました。

MSMミーティングで活動計画を仲間たちと練り上げていくリーダーのペー

この日、HSFの事務局長であるチェリーも生まれたばかりの息子プーピアン(「丘」の意味だそうです)と夫を伴って、私に会いに来てくれました。すこし産後に体調を崩し、病院通いをしていると聞いていたので、心配しましたが、元気そうな親子を見て、とてもうれしく思いました。6月からチェリーは現場に復帰してくれるそうです。

チェリー、息子のプーピアンを抱いておどけるスタッフのミャオ、そして徹

皆で楽しい昼食をした後、私はスタッフのノイ、トム、ニーナ、HIV陽性者リーダーのガイさんと一緒に、3件の家庭訪問に同行させてもらいました。詳細は他の機会に譲るとして、一人だけ強い印象を与えられた少女について報告させていただきます。彼女はMさんという18歳の女性で、母親から乳児期にHIVに感染し、その母親はすでにエイズで亡くなり、現在は祖母と一緒に暮らしています。何年か前に、高熱とともに中枢神経系の感染症(髄膜炎か脳炎か?)を発症したようで、熱が引き楽になった後も、後遺症として、右半身の重い麻痺が残ってしまいました。幸い言葉には大きな障害が出なかったようです。しかし、急性期から回復期を通してリハビリをきちんとやってもらえなかったため、彼女の右手の指は、屈曲したまま、固まってしまいました。また足はつま先が尖足という、とがった状態に固定されてしまい、歩行の際、つま先の一部しか着地できず、歩行が不安定になってしまったのです。加えてHIV感染と障害のことがあり、彼女は結局、小学校にさえきちんと通学する機会を奪われてしまったのです。シャイな笑顔をたたえ、聡明そうな彼女の表情の裏に隠された、深い哀しみや諦めの気持ちを、私は読み取らざるを得ませんでした。

筋力を落とさないようにしてアキレス腱やふくらはぎの筋肉を手術で上手に緩め、踵の変形を直し、その後でしっかりとリハビリを受けることができれば、彼女は社会に出て、もっと活発な生き方ができるようになるのではないか? また右手が実用的には使えるようにならないとしても、左手を使って、障害者用のパソコンなどを学び、教育や職業訓練を受けていくことも、あながち不可能ではないはずだと思いました。彼女は政府から、ある程度の障害年金やHIV陽性者としての無料の医療サービスを受けていますが、同居の祖母が高齢であり、もしものことがあると、境遇も不安定になってしまうでしょう。その意味で、ウボン県やケマラート郡の福祉や医療、教育の関係者が、知恵を寄せ合って、この少女の将来のために最善を尽くしてほしいと思うこと切でした。

3.ムクダハン県の保健局での本田講演会 - 高齢社会と大震災を日本はどう共感的に乗り越えようとしているのか?

HFS(タイの独立法人「健康・シェア財団」)の理事長であるアーカード医師は、工藤芙美子さんやシェア副代表・沢田貴志さんにとって長年の友人でもあり、またよきパートナーとして助け合ってきました。彼は現在、東北部のムクダハン県(ラオスとの国境を流れるメコン河に架かる第二友好橋があります)の県保健局長という重職にあります。その彼が、5月6日私を講師として招いてくださり、大勢の職員や外部の専門家などの前で、2つのテーマで講演をするように要請してくれました。一つ目は、急速に高齢化する日本社会はどのようにこの課題に向き合っていこうとしているのか、というテーマです。 戦後日本が達成してきた、国民皆保険制度(日本版ユニバーサル・ヘルス・カバレッジ:UHC)や、それを草の根で支えてきた、佐久や沢内村での優れた、先駆的な実践、また私自身の山谷などでの高齢者地域ケアのささやかな経験をお話し、そうした事例が、近年急速に高齢化の進むタイにとって、参考になることがあれば、是非タイの人たちと共有したいと思った次第です。

国連の推計によれば、2025年には、タイはアジアの国々の中で、日本、韓国、シンガポールに次いで、もっとも高齢化の進んだ国となる見込みで、65歳以上の高齢者が全人口に占める割合は23.1%になるとのことです。若かったタイ王国も、いつの間にか、本格的な高齢社会に突入するわけです。避妊法に対する宗教的なタブーが少なく、第二次大戦後アジアの中でも家族計画が一番成功した国の一つだったからこそ、逆に21世紀になった今、この国で高齢化の進展が急速となったのも、やむを得ないことなのかもしれません。
私のお話を熱心に聞いてくださった参加者も、日本には日本のやり方があるだろうが、タイはタイで、これまで培ってきた草の根レベルの人的、物的資源を有効に活用して、文字通りプライマリ・ヘルス・ケア(PHC)のスピリットで、自分たちなりの高齢者ケアの仕組みを作っていくのだという気概のようなものを示してくれました。そのことについては、後で触れます。

ちょうど私がタイに到着したころ、ネパールの大地震のことが、タイでも詳しく報道されており、人びとの関心も高くなっていました。今やタイは、こうした被災国に緊急援助隊を派遣するまでに力をつけてきています。一方で、タイは、津波や河川の氾濫、地震などにかつて襲われており、災害への平時からの備えの重要性に対し、保健・医療関係者は高い認識と関心を持っています。私は、神戸や東北地方での、シェアのささやかな被災地住民支援活動の経験も踏まえ、緊急救援にとどまらない、地域の復興に資するような、息の長い「伴走」型の支援の在り方の大切さを強調させていただきました。
一方、福島では、地震と津波の後の原発事故という「人災」のために、県全体に大きな惨害が広がり、いまだに復興や環境汚染除去や廃炉の課題が、何十年にもわたって、重くのしかかっていることを伝えました。

ムクダハン県保健局主催の講演会での本田とアーカード保健局長

4.ファミリー・ケア・チーム(FCT)とはなにか?

今回の私のタイ訪問で、重要な目的の一つだったのは、高齢化が急速に進むタイでは国レベルの政策がどう形成され、それが地域でどう具体的に実施に移されているのか、ということでした。ずばりこの疑問に対する答えを、アーカード医師が示してくれました。私の講演の前座で、彼は職員に対する意識化の意味もあって、英語でファミリー・ケア・チーム(FCT)という、昨年の12月に全国で発足したばかりの国家プロジェクトの概要を説明するとともに、ムクダハン県でのその取り組みについても教えてくれました。
タイ保健省によると、FCTプログラムは、昨年12月に正式にスタートしたばかりですが、3か月後の3月19日の時点で、すでに全国に1万5千のFCTが形成され、高齢者のみならず、障害者、支援の必要な母児、末期がん患者などの、在宅およびコミュニティ・ケアに乗り出しています。さらに2015年末までにこのケア・チームの数を3万にまで増やす計画です。FCTプログラムでも、中央-県-郡-タンボン(Sub-district)―村という調整・コマンドラインはあり、県保健局、コミュニティ(郡)病院、タンボン・ヘルス・センターなどがそれぞれのレベルで重要な役割を果たす点は、これまでのタイのプライマリ・ヘルス・ケアの仕組みとそう変わらないというか、既存のそうしたシステムを十全に生かしていくという方針なのです。
ただ、このFCTの最大の特徴は、1)ケアギバーという、介護サービス提供者を、地域の保健ボランティア(VHV)から選抜・養成する仕組みにしたこと、2)日本のように、高齢者、障害者、母子といった事業別・対象グループ別の縦割りで、互いの連携性に乏しい、医療・福祉・介護・介助のシステムではなく、草の根レベルでは、ケアギバーはすべてのサービスに関わるという、包括性を重視していることです。
 これは、やはり「PHC先進国」タイならではの独創的なアプローチだと、私はたいへん感心しました。

講演会の後、アーカードさんは、私やHSFのスタッフを連れて、ムクダハン市内の2か所のタンボン(Sub-district)に赴き、そこで活動するFCTたちに引き合わせ、彼らの家庭訪問活動の現場を見学させてくれました。実際に病院から自宅に帰ったばかりの脳梗塞の患者さんが、ケアを受けているところを拝見して、県病院―郡病院―ヘルスセンター、そして保健ボランティア(ケアギバー)間の連携、協力がよくでき、必要に応じて、再び高次の医療機関にレファラルしていく仕組みもFCTの中に生かされているのだと感じました。今後、このシステムがどのように発展していくのか、注意深く見守っていきたいと思います。

ムクダハン県FCTの活動を患者宅で視察する

5.結びとして - アチャン・スヴァンニーとの再会と対話

1990年代はじめ、私がタイに留学しているとき、論文のテーマとなった保健ボランティア(Village Health Volunteers)の研究と実地調査で一番お世話になったのが、ウボン市にあるマヒドン大学栄養学研究所分室の、当時室長であった、アチャン・スヴァンニー・プロムチャン(Achan Svannee Promchan)でした(アチャンは先生の敬称)。ウッド(Wood: 森)さんという愛称を持つ彼女は、学者というより気さくなおばさんタイプで、3人の子どもを産み育てながら、たくましく、明るく、おしゃべりが大好きで、ユーモアに富み、あだ名通りウボンの自然をこよなく愛し、環境保護にも尽力する人でした。そして地域の子どもや母親の栄養問題の解決に、当然のことながら、もっとも大きな学問的関心と情熱を注ぎ、いくつものプロジェクトを切り盛りするとともに、海外からの研修生を積極的に受け入れ、国際交流を図ってきました。ウボン県ピブン・マングサーハーン郡とコンチアム郡という2つの郡での私のフィールド・ワークは、彼女の幅広い人的ネットワークと協力なしにはできないことでした。私は質的研究法を併用していたので、インタヴュー調査後のデータのコード化やカテゴリー化などのまとめ作業にも、全面的に彼女のお力を借りました。

ヴィチャ(Vicha)&スヴァンニー・プロムチャン夫妻とともに

当時彼女は、地域の子どもたちの栄養失調症、とくにビタミンA不足問題の解決のために、地域で自生している ’Ivy Gourd’ という蔦(つた)の仲間の植物を、炒めたり(油性のビタミンなので腸からの吸収がよくなる)、サラダにして、家庭や学校でどんどん子どもたちに食べてもらうように、啓発や運動を進めているところでした。彼女は、工藤芙美子さんとも意気投合し、カンボジアでのシェアのプロジェクトに研修講師として招かれた際も、この ’Ivy Gourd’ が地元に広く自生することを確認し、地域の保健ワーカーたちに利用を勧めていました。
もう一人忘れてならないのは、彼女のお連れ合い、ヴィチャ・プロムチャン(Vicha Promchan)さんです。彼は高校の先生であるとともに、タイでも有名な漫画家、イラストレーターとして長年活躍され、読売新聞の国際漫画コンテストで受賞するなど、業績をあげてこられました。当時のシェア・タイでの保健教育プロジェクトにも、彼は楽しい、考えさせられる絵を寄せてくださり、私たちはたいへん勇気づけられました。最近、ヴィチャさんは視力が落ちてきたこともあり、仕事の量は大幅に減らしていますが、まだまだ創作欲は衰えていないようです。

ヴィチャさんが、シケウ村でのシェアの下痢予防活動のために描いてくれた保健教育漫画、 「清潔な水を使うためには」

1990年代の終わりから2000年代にかけ、UNICEFとマヒドン大学栄養学研究所の共同プロジェクトとして、1992年に成立した、国連の「子どもの権利条約」(Convention on the Rights of Child)の精神に基づき、学校や地域での子どもたちの健康や栄養や学習問題に地域参加型で取り組むパイロット・プロジェクトが、ウボン県内のいくつかの学校で行われていました。当時学校教育の場にもようやく導入され始めた、コンピュータを、子供たちが暮らし学ぶのが、都市であろうと、山間僻地であろうと、平等に使えるように援助してほしいと、地元の学校の先生が新聞などにアピールしたことが、きっかけとなったようです。この訴えに、UNICEFやマヒドン大学が応える形で、採択されたばかりの「子どもの権利条約」をタイの人々に周知する狙いもあって、プロジェクトの形成に結び付けたと聞きます。
プロジェクトの成果がどうであったのかを聞く余裕はありませんでしたが、私に同行してくれた、HSFのトムやノイは大きな関心を持ってこの話に耳を傾けていました。
というのも、このレポートの前半で書いたように、地域で子どもの直面する問題は、2000年当時よりさらに複雑で難しいものになっています。その意味では、チャィルド・プロジェクトが目指したような子どもたちの健康、教育、福祉改善につながる地域での活動は、その時以上に、今一層必要になっているとも言えそうです。UNICEFとマヒドン大学が共同で発行した、このプロジェクトの報告書の表紙は、ヴィチャさんの絵で飾られています。この絵の意味するところは深長です。つまり、伝統的タイ農村社会を象徴するものとして、米を蓄える大きな櫃(ひつ)が描かれ、今まさに子どもたちが、長い間閉じ込められてきたその蓋を持ち上げ、櫃から逃れていく様子を、ダイナミックに捕えています。しかも、先頭を切って逃げ、嬉々とした表情で描かれているのが、少女だというのも非常に象徴的です。

ヴィチャさんが描くスヴァンニーさんたちのチャイルドプロジェクトの表紙絵

新しいイサーン(東北タイ) の財団であるHSFが取り組んでいくべき活動の柱の一つが、子どもの健康、福祉、権利に関わるものであることは間違いありません。トムのようなワーカーにとって、これこそが一番モチベーションを感じている分野なのです。そこで、私は、スヴァンニー先生にくれぐれもHSFをよろしくとお願いし、この「えにし」が新たな実を結ぶことをお祈りしました。さらに、来年には、子どもの福祉や健康の問題にだれよりも深くコミットし、優れた、独創的な活動を孜々(しし)として続けてきたデビッド・ワーナーさんを東北タイに招いてワークショップを開きたいなと、とっても早い初夢まで抱いてしまいました。
財政やマネジメントを含め、課題山積の新生HSFですが、地域で必要とされ、認知度を確実に高めていることは、私が滞在した短期間でもひしひしと感じることができました。
なんとか、この財団が、しっかりした基盤を築いて、独立・独歩で発展していけるように、これからも応援と連携を強めていきたいと念願しています。
今回の旅行でたいへんお世話になった、HSFのスタッフ、アーカード理事長はじめとする役員の方がた、MSMや陽性者グループのリーダーたち、そしてスヴァンニー夫妻、東京事務局の広本充恵さんらに心から感謝いたします。

最後にタイの活動への、皆さまの引き続きの温かい御支援を、なにとぞよろしくお願い申し上げます。

2015年5月17日


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