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ダン先生、さようなら -大きく、温かい心をもつ、卓越した医師 《Dr.本田徹のひとりごと(77)2020.2.19》

ダニエル・マーフィ医師(1944年9月23日―2020年4月14日)
彼の御霊が、東ティモールの人びとを温かく見守ってくださることを祈って

ダン先生、さようなら
‐ 大きく、温かい心をもつ、卓越した医師

ダンさん、デビッド・ワーナーさん、そして徹。2011年11月ディリ。

  その男は背が高く、がっちりした体格で、まじめだがやさしい笑みを浮かべていた。それは1999年10月のこと。私がダンと初めて会ったのは、インドネシア軍とその手先だったティモール人民兵たちが、「焦土作戦」を行い、東ティモール(かつてのポルトガル植民地)をめちゃめちゃにして去った直後のことだった。病院・診療所を含めまともな建物・家屋は何一つ残っていなかった。80%が焼け落ちるか、単純に打ち壊された。

 私たち日本人チームはオーストラリアのダーウィンから、多少の薬、医療用具、そしてディリ市内にあるバイロピテ診療所に置く、大きな椅子を持ち込んだ。仮作りの外来診療棟でダン先生は、日曜日を除く朝7時から夕方7時まで、一日平均300人以上の患者さんを診察していた。そのため彼は、大きな体を気持ちよくあずけて、仕事をし続けられる、しっかりとした広めの回転椅子が必要だったのだ。流ちょうなテトゥン語(現地のことば)とポルトガル語を操りながら、ダンさんは一人ひとりの患者さんと家族に、やさしく温かい言葉で話かけ、しかし素早く診察し、判断し、指示や投薬をしていた。


焦土作戦で焼け落ちた民家, 1999年10月ディリ郊外

ダン医師は1944年に米国の中西部農業州アイオワで生まれた。彼の父もまた、地域で尊敬される医師で、ちょうどユージン・スミスの「カントリー・ドクター(田舎医者)」という、名高い写真集に描かれているような人だったと思われる。

  学童期から青年期にかけて、ダンが最も打ち込んだのはバスケットボールで、選手としても活躍した。彼の「Breakaway」(離脱者)と題する自伝にも、そのことは詳しく描かれている。

 1960年代の末から70年代の前半、ダンは心身ともにベトナム戦争に「捕まって」しまった。彼はこの道義を欠いた戦争に激しく抵抗した。ニクソン大統領が北ベトナムに侵攻しようとすると、100万人とも言われる若者を中心とするデモ隊が、ホワイト・ハウスを取り囲んで、阻止しようとした。ダンと彼の親しいガールフレンド(後に彼の妻となる)ジャネットは、二人して捕らえられ、一時留置場に入れられた。

 彼はアメリカの海軍から徴兵され、新米の医官としてベトナムでの任務に就くように命令を受けたが、これを無視し、良心的徴兵忌避者となった。ダンの父は、息子が反戦運動に積極的に加わった上に、徴兵を忌避したことを非常に悲しんだ。父はなぜ息子が、国家からの呼びかけに応えようとしないのかが、理解できなかった。確か、彼の父は日米の間で戦われた太平洋戦争に従軍していたのだった。

 ベトナムでの軍務を拒否し、収監される代わりに、裁判所はダンに、カリフォルニアに住む、ラテンアメリカからの移住労働者、刑を終えて出獄した元犯罪者、麻薬常習者、ホームレスの人たちなどへの医師として、社会奉仕することを命じた。こうしてダンは、さまざまな社会的背景を抱え、文化や人種が異なった、貧しい住民に対す医療に関心を持つ、きっかけを与えられることとなった。彼は結果として、スペイン語やポルトガル語をすみやかに習得していった。

 1980年になって、ダンは妻のジャネットと二人の幼い息子を連れて、アフリカのモザンビークに渡り3年間働いた。彼は臨床の仕事も精力的に行ったが、同時に看護教育にも熱心に従事したという。だが、残念なことに、当時アパルトヘイト政権下の南アフリカの軍隊の侵略を受け、またそれに呼応した国内の反乱軍によって、モザンビーク国内は内戦状態となった。小さな子どもたちを抱えたダン一家は、国外退避を余儀なくされる。

 米国に帰国後、ダン一家はアイオワに住む父を頼って合流し、しばらくの間、父の「田舎医者」としての仕事を手伝った。父との協働を通して、ダンは改めて医師としての父に尊敬の念を深め、ベトナム戦争以来疎遠になっていた二人は和解する。ダンは父が、診療圏の地域の、ほとんどすべての農家の、三世代にわたる家族の名前や性格、地域での生活ぶりなどをきちんと把握し、彼らと親しく付き合っていることを知った。ダンは父がどんなに地域の人たちに尊敬され、愛されているかを、思い知らされることになったのだ。

 ダンは以前私に、1974年ポルトガルが民主革命で旧植民地を手放すこととなり、その翌年にはインドネシアが軍事侵攻して、無理矢理東ティモールを併合して以来、彼はこの国に強い関心と同情を寄せてきた、と語っていた。結局1998年になってダンは、米国、オーストラリアのカトリック教会や市民団体の支援を受けて、東ティモールにやってくる。到着するやいなや、彼はディリ市内のモタエル教会の敷地内に付属していた、血と喧騒の修羅場とも言うべき診療所で働くことになった。どうしてかというと、彼が東ティモールに到着するまでに、日一日と首都の社会的・政治的な状況は張り詰め、悪化していたからだ。インドネシアからの独立を求める多くの人々が、鉈や銃によるひどい傷を受け、市内や遠方の農村地帯からクリニックに運ばれてきた。モタエル診療所は、島内でほとんど唯一、住民のために外科的な救急処置もできる医療機関だったのだ。当然インドネシア軍は、ダンや彼の医療チームが負傷者のためにやっていることを喜ばなかった。モタエル教会は長年に渡って、侵略者に対する非武装的な抵抗のシンボルのような場所だった。従って、クリニックで行われる医療活動は当然内外の注目を集める。海外からの特派員やジャーナリストたちも、数多く引き寄せられ、そこに運ばれてきた非人道的な暴力の犠牲者の様子を伝えた。1999年8月、国連の管理下での、独立を問う住民投票が行われた時期に、ダンはビザが切れたことを理由に東ティモールから放逐された。その後、オーストラリアを中心とする多国籍軍が乗り込むと、ダンも待ちかねたように東ティモールに戻り、今度はバイロピテに診療所を開いた。

 1999年の私の訪問のとき、忘れられないエピソードとなったことが一つある。彼が私を連れて、バイロピテから退院したが、なお回復過程にある患者を保養する、賄い付きの寄宿舎に案内してくれた時のことだ、そこには一人の10代の娘さんが暮らしていて、彼女は瀕死の粟粒結核から、ダンによって救われたのだった。ダン先生は彼女を優しい眼差しで見つめ、少女もまた、はにかみながら、ダンと一緒にいることをどんなに幸福に感じているかが、よくうかがえた。

粒結核から救われた少女とダン医師。1999年ディリ市内。

 ある年の秋に私がバイロピテを訪ねると、ダンさんはすぐに私を診察室に招き入れ、一冊の分厚い医学書を書架から引き出すと、栞(しおり)の挟んであるページを私に示し、この男を知っているかと問う。それは、森鴎外の立派な肖像写真であった。鴎外を紹介しているのは、権威ある結核の専門書である、Lippincott社の「Tuberculosis」(多分、2004年版)。写真のあるページを含め、森鴎外のライフ・ヒストリーが詳しく紹介され、彼が書いた「假面」という劇作品のことにも触れてある。鴎外が近代日本の生んだ最も偉大な文学者の一人であるとともに、官職としても陸軍軍医総監まで登りつめた人であることにも言及されている。
 問題は、彼が若き日にドイツに官費留学し、結核菌を発見した偉大な細菌学者・ロベルト・コッホ博士を、1887年北里柴三郎ともにベルリンに訪ね、入門を許され、この大学者の下で1年間ほど結核菌のことも学んでいることである。皮肉なのは、彼が帰国してすぐ、自身結核を発症したらしいことだ。しかも、彼はたぶん日本で最初に抗酸菌染色の方法を習得した人であり、顕微鏡下で自身の喀痰検体の結核菌を確認したようなのだ。
 私が「假面」を図書館の鷗外全集で読んだのはだいぶ以前のことなので、忘れていることも多いが、劇に出てくる医師はみずからの身を蝕む菌に慄然としながら、そのことをずっと、家族にも、親しい友人にも隠し通していく。そして、医院を訪れたある青年の患者が結核であることを診断され、自殺まで思い詰めたとき、「実は自分も若き日にそうした体験をしたが、ひたすら隠忍自重して、『假面』をかぶって生きてきたのだ。君も諦めず生き続けよ」という意味の励ましを医師は青年に与え、帰らせる。
 明治のこの時代、結核は不治の病であり、しかも社会的なスティグマの非常に強い病気だった。実は鷗外は最初の妻を何らかの理由で離縁し、その後この離別された妻は結核のため死んだとされている。つまり、鷗外から結核を移された可能性も否定できないのだ。こうしたこと全体が、結核学の教科書にとって大きな教訓であり、鷗外という当時最高の知識人、すぐれた医学者すら、亡くなるまで感染の事実を隠し通さざるを得なかった明治の社会を、現代の光に照らして振り返ようと、この章の著者は読者に呼びかけているのだ。
 鷗外の死因はかつて萎縮腎とされていたが、最近は腎結核による慢性腎不全と肺結核ということに定まったようだ。

 ダン先生は、つねづね、彼にとって東ティモールで一番大事な仕事は、この、世界でも指折りの結核の蔓延国の人びとの結核を、できるだけ多く、早く発見し、家族も含め治療に結び付け、地域社会全体に啓発と教育を行うことなのだと言っていた。

多忙な診療の後、くつろいで日本の禅の本に読み入るダン医師

 2006年4月に、東ティモールは再び危機に瀕した。今回インドネシアは直接には関係なく、国内の異なった軍や警察のグループが互いに対立し、銃を向け合うこととなった。多くの兵士と警官と市民が命を落とした。背景には異なる地域間、出身部族間の利害の衝突があったと言われるが、解明されていないこともあるようだ。数万から十万以上という人びとが、数か月にわたって国内避難民となり、ディリでは、コモロ国際空港に向かう道路の周辺や、市の郊外のメティナロなどに避難民のキャンプがいくつもできた。シェアも、バイロピテ診療所と協力する形で、ささやかな医療支援活動をキャンプでさせていただいた。この時も、ダンさんの救援活動における的確な状況判断やリーダーシップに感心した。

 4歳くらいの男児が、そんな混乱を極める時期のある日、バイロピテの救急外来に運ばれてきた。対立する武装グループ間の銃撃戦に挟まれ、それを逃れるため家族ごと家を捨て、ディリ近郊のダレの山の中を1か月近くもさまよっていたという。子どもがクリニックに到着したとき、彼はショック状態で、熱も40℃以上あった。血液の検査で、すぐに彼が、熱帯熱マラリアと三日熱マラリアに重複感染していることが判明した。
 こういうときのダンの判断と処置は迅速だ。医師はすぐにリンゲル液の点滴を開始し、Artemetherの注射も投与した。2日するとこの子は解熱し意識がもどり、少しずつ食事や飲水もできるようになった。あと1-2日遅れていたら、また当時ダンだけが入手していたArtemetherの注射液がなければ、この子を救うことはできなかったことだろう。

二つのマラリア感染で重体に陥った4歳の男児。バイロピテ2006年6月。

 2011年11月、私たちSHAREはデビッド・ワーナーさんを、2009年日本に招聘したのに続いて、東ティモールに招いた。私にとって、デビッドはダンと並ぶ、プライマリ・ヘルス・ケアの師匠(メンター)と言える。デビッドには、アイレウとディリの2か所で、ワークショップ、講演、そしてプロジェクト地の視察、助言を2週間近くかけて行っていただいた。保健教育教材の開発や使い方、住民へのアプローチの仕方を含め、それは東ティモールの人たちにとっても、現地のシェアのスタッフにとっても、たいへんに実りの多い、学びの機会となった。

 ディリのワークショップと講演会では、ダンが2回にわたり親切に通訳の労をとってくださった。ある意味で、私にとっては長年の夢がかなった瞬間だった。ダンは診察室にもデビッドの「医者のいないところで」(Where There Is No Doctor)を置き参照していたし、モザンビークでも東ティモールでも、草の根のヘルス・ワーカーたちにこの本を勧めていた。ベトナム戦争時代のつらい体験を知っているという意味でも、二人は多くの価値観を共有していたのである。

ィリのワークショップでのデビッド・ワーナー。ひょうたんベビーを使った、下痢と脱水症の仕組みの説明。

 彼の人生の最後の数年間、ダンはバイロピテ診療所を継続させるために大きな労苦を払うこととなった。これまで彼を財政的に支えてきたオーストラリア人のグループが、方針の違いのためか、運営から脱退し、ダンは財政的援助を絶たれたのだと聞く。なんとか政府からの支援が入り、入院病棟を基本的にやめ、そしてスタッフの献身的な努力により、なんとか続けられてきたが、ダンにとって、臨床の仕事だけでも大変だったの、それに加えてのこの負担は容易でなかったと推察される。この心労が彼の死期を、あるいは早めたのかもしれない。しかし、ダンは最後の息を引き取るまで、前向きで、なにくそという気持ちを失わなかったのではないかと信じたい。

 私としては、バイロピテの人びとが結束して、ダン先生の衣鉢を継ぎ、引き続き島のもっとも貧しい人たちのために、医療を提供してくれることを祈りたい。

 バイロピテ診療所の以下のWebsitesをよろしければ訪ねてください。そして、支援を寄せていただければ、職員たちも、ダン先生の霊も喜ぶことでしょう。

■ http://bairopitecliniclanud.com/?fbclid=IwAR1kLwlY30mZj7-z4BKgGGdjX9zHNFb-iqGD-biz7bbn1Rpn2t60AVYnLeA

■ ■ https://www.facebook.com/pages/category/Health---Wellness-Website/Bairo-Pite-Clinic-Lanud-1864674177164833/


バイロピテ診療所でのダン先生のお別れ会

一人ひとり、彼の弟子だったと思う者は(私自身もそうだが)、彼の医療者としての職業倫理から学び続け、彼の掲げた高い理想の松明を、より若い世代の人びとに引き渡していくことが、どこにいようと、私たちが、ダンから委ねられた務めなのだとしきりに思う。

あなたが教えてくれた愛と団結を忘れずに。さようならダン先生。

本田徹 (SHARE) 2020年5月21日



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