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人生をゲームにする100の方法(17):単純化する

そういえばこの連載(?)、最近書いていなかったことを思い出したので。

「人生をゲームにする」なんて大仰な表現を使わなくても、多かれ少なかれどの人だって人生を「ゲーム」っぽくするライフハックを使っているものだ。

なかでも「人生の単純化」はその最たるものである。どんなに複雑なゲームであっても、人生という現象が持つ複雑性に比べればシンプルだ。シミュレーションゲームは特にそれがわかりやすい。シミュレーションというのは結局、ある事象や局面の単純化・可視化によって成り立っており、どこをどう単純化・可視化すれば、本質的な現象の変化を表現できるようになるのかにかかっているからである。

単純化がうまくいっているゲームはおもしろいし、そうでないゲームはつまらない。そしてそれは人生の歩み方にも通ずる。

問題は、どう単純化するのかという点よりも、「自分がどう単純化しているか」を認識しているかどうかという点だ。

「人生をゲーム的に生きる」の要諦は、まさにこのメタ視点の有無にある。人間は大抵の場合、複雑性をそのまま受け入れることに耐えられないので、多かれ少なかれ単純化することで、操作可能な事象とする。そこには意識的にせよ無意識的にせよ、認知的な操作がある。

ここを認識できている(=距離が取れている)と、変更は容易になる。それが操作概念であることをわかっているからだ。逆にそうでない場合、単純化した絵図が、そのまま現実をあらわしていると思い込む危険性がある。

わざわざプラトンの洞窟の例を出すまでもなく、私たちは自分たちの視点でしか物事を把握できない。そしてここでいう「自分たちの視点」というのは、その人なりの、人生を生きやすくするための単純化なのだ。

逆に、いま生きにくいと感じているのならば、それは単純化がうまくいっていないからである。単純化とは、つまり物語化である。この物語が破綻していると、私たちは幻想の中に生きることができず、ゴツゴツとしたアスファルトという現実世界とそのまま生身で向き合うことになってしまう。

私は専門家ではないので詳しくはわからないが、どこかで「うつ病の人は、そうでない人よりも現実の認識能力が高い」という記事を読んだ記憶がある。私はまさにここに人間という生命の特徴が色濃くあらわれていると感じる。私たちは幻想――自分用に単純化・カスタマイズされた個別の「現実」――なしでは、現実という複雑性に耐えられない。

人生につまずいたとき、誰かの心を踏みにじっていると自覚したとき、自分の「単純化」がどのように行われているのかを、あらためて点検する必要がある。文章に書くのがもっともいいだろうし、ゲーム的に捉えるという観点からは、それを構造的に捉えることができたら理想だ。最近では「システミックデザイン」みたいな手法も流行り始めているようなので、気になる方がいたら検索するといいかもしれない。

単純化は、人生をわかりやすく、理解しやすく、そして自動化してくれる。人間、すべてのアクションに意識を研ぎ澄ますことはなかなかできない。だから多かれ少なかれ、単純化が必要になる。それは「自転車に乗る」といったような肉体的なことに限らず、人との接し方や世界の見方についても同じことが言える。

だからこそ、その単純化する方向性を間違えないようにしたい。そして単純化は一度完了すればずっと変わらないものではない。環境を分析して、ときには単純化のプログラムをやり直す必要がある。そうやってアップデートしていかなければ、世界から取り残される。単純化はたしかに私たちを生きやすくしてくれるが、自動反応ばかりしているとあっという間に通用しなくなる。

私がよくやるカードゲームの話で恐縮ではあるが、ある程度デッキの構成は単純なほうがきれいだし「事故らない」。人生においてもある程度これは同じことが言えるのではないか。そして環境が変わったら、その構成要素を変えるのである。人生はカードゲームではないので、これはあくまでメタファーであるが。

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