「ごちそうさま」と「ナイスハンド」とポーカー


・「ごちそうさま」の意義を拡張、再認識してみる


こないだ、飯食った後の「ごちそうさま」は思考停止だよね、と言われた。ほんとにそうかね。考察してみる。
まあ確かにマジョリティの「ごちそうさま」は形骸化してる気がする。ごちそうさまって感謝の言葉として使わるはずの言葉だが、感謝の念を抱いてごちそうさまを唱えるやつは少数派だというのが俺の見立てだ。
つまりは、内面の気持ちが本質であってお題目として唱えるだけのごちそうさまは思考停止というのはわかる。意味がないからね。儀式的ですらないと思うよ。幼少期にプログラミングされたワードを放っているだけ。

ただね、だからといって「ごちそうさま」を思考停止だと括るのは早計だ。

ごちそうさまの意味を俺は幾度となく考えたことがある。ガキの頃虚無を抱いてごちそうさまを唱えている自分に気づき苦痛を生じたからだ。虚無の時間は自分を殺してるようなもんだから。

で、今のとこの結論。「ごちそうさま」は”自力では認識できない”自分を支えている社会への感謝を”儀式的に”抱く時間。お祈りの時間とかだと思っていい。

考えてみたまえ。俺たちは身の回りの物なにひとつ自分で創造できない。衣食住すべて。履いてる靴や服、食べた米やパン、を運送したトラック、を構築している部品、を発注したスマホ、から繋がるインターネット、を通す電波、風呂桶にたまったお湯、どれひとつとっても自力ではろくなものが作れない。一生かかってもたいしてものは揃えられない。俺たちの身の周りにあるのはいわば自力では到底為しえれなかった所業の数々。英知と努力と時間の集まりによって俺たちの生活は構築されている。原材料の調達、加工、運送、生産、どんなものでも自分の元に届くまでに少なく見積もっても数百人は携わっているであろう。身の回りの物の数を数えると人間がいかに群れで生活しているか実感する。そこに気づいたとき抱く感情は漠然とした感謝と一人では何もできないという無力感だ。我々は一個体では何もできない生き物だ。

しかし、そんな感覚を持っていても、日頃その感謝を実際に伝える機会はおろか、表明する機会というのはほとんどない。だとしたら。
一日のうちのほんの数秒だけでも、例えば「ごちそうさま」の瞬間だけにでもその感謝を心底抱き世界表明する時間にしてもよいのではなかろうか。

この瞬間味わう米と肉、それを作った農家、運んできた業者、卸したスーパー、だけに留まらず、その米や肉の先祖、農家の先祖、スーパーの創業者、その食事が置いてある机、その机を作った工場、から食卓に届けた車、が走ってきた道路を作った人など、「ごちそうさま」を言う瞬間の目先の対象物の関係性を無限に連ねていくと時間軸を引き延ばしていくと世界を覆いつくして感謝できるのではないか。
そうして、自力では認識できない自分の生活を構築している”万物への感謝”を一日のうちの数秒だけごちそうさまに込めること。ここまですれば「ごちそうさま」は思考停止とは言えまい。

そうしてみると、キリスト教徒の”食事の前のお祈りの時間”というものも多少は理解することができるはずだ。宗教をベースに、神という概念に転じて世界へ感謝するのは健全で慈悲深い行為だと思う。

・「ナイスハンド!」の意義を考察する


さて、本題だよ。こっからだよ。ポーカーの話だ。
「ごちそうさま」と同様に「ナイスハンド」にも同じことがあてはめられないかと俺は思うのだ。
というのも、ポーカーテーブル上で交わされる「ナイスハンド!」という言葉が俺は長らく疑問だった。試しに言ってみたが虚無この上なかった。負けてポットを取られて相手のハンドを褒めるというのは俺からすると無理筋だ。本心で言えるのは月に一度あるかないかだ。ばかげている。基本悔しいだけだろ。かといってお世辞も苦手だ。

郷に入っては郷に従えと、ナイスハンドを唱えるたびに虚無が積み重なり魂がすり減っていくのを感じた。この言葉を使わないで人生を送ればいい。そんな誘惑が何度もよぎった。でもそれは俺には蛮行に思えた。心からナイスハンドと言える人間を何度も目にしていたからだ。ポーカーテーブルに座っていれば一日に一度は必ず聞いてしまう「ナイスハンド!」。心からナイスハンドと言える人間と俺の違いは何だというのだ。

そして、あるときふと辿り着いたんだ。俺なりのロジック。自分が心から「ナイスハンド!」と言える意味。「ナイスハンド!」と言われたときに返す「センキュー」への意味。

ポットを取って「ナイスハンド」と言われた。不可解だったが儀礼的に「センキュー」と返した。ナイスハンドだけなら言わなければどうってことない。自発的に選べるから。だが「センキュー」はどうだ。ナイスハンドと言われたならば礼を言わざるを得ない。その掛け合いに納得がいってないにも関わらずだ。俺は限界だった。魂がすり減ってもはや病みかけ稼働に支障がきたされていた。

ある時、その病は潰えた。今でも覚えている。マカオWynnの4番テーブル5番シート。いつもように俺は「ナイスハンド」と「センキュー」の虚無さに思いをはせていた。今日もまたこの虚無のやり取りをせねばならんのかとあえいでいた。
その刹那、俺は見たんだ。「ナイスハンド」への返答「センキュー」のあとに、改めてディーラーに感謝を述べる男の姿を。彼は自分がポットを取ったことを真にディーラーのおかげでもあると感じて感謝を述べていたんだ。
ポーカーをしたことある人間ならば、ポットを落としたことをリバーでアウツが落ちてポットが取られたことをディーラーのせいにする人間を見たことあるんじゃないか。あの蛮行の逆だよ。ポットが取れたことをディーラーのおかげだと心底感謝してるやつがいたんだ。

そのときすべてが繋がったんだ。俺になかったのは連想力だった。
ナイスハンドと言われ、「センキュー」という。この「センキュー」は万物への世界への感謝を込めればいいんだ。
今俺が取ったポット。そのポットはどうあがいても「自力では創造できない」ものだ。Flop,Turn,River,が落ちたから、ポットを争う相手がいたから、このカジノがあったから、カードを配ってくれるディーラーがいたから、このポーカーテーブルがあったから、たまたま5番シートに座っていたから、その椅子を作った誰かがいたから、その椅子を運んできた業者がいたから、その業者に発注した人がいたから、その発注した人を雇った人がいたから、その雇った人を雇った人がいたから、その雇った人を雇った人を育てた親から、その雇った人を雇った人を育てた親が食べた食事、入った風呂、扱ったスマホ、電気、水道・・・etc
ああ!!そういうことだったのか!!
そっから先は無限だった。感謝感激終わることのない連鎖。気が付くと俺はこのテーブルにいる全員、いやカジノにいる全員、いやマカオの国民全員、いや地球への感謝、否、宇宙への感謝を抱きながら3betしていた。

どれかひとつが欠けていても俺が取ったポットは存在しえない。ともすればナイスハンドと言われて返す「センキュー」に込めるのは”万物への感謝”だ。概念としての宇宙への感謝だ。

だとしたら。「ナイスハンド」が讃えているのは任意のハンドではない。相手がポットを瞬間そのものだ。感謝へのアシスト、このポーカーというゲームの中で起きた現象への一縷の讃えなのだ。その共鳴が「ナイスハンド」と「センキュー」なのだ。
なぜならポットが動いたその瞬間は世界の何一つかけても存在しえなかったのだから。

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