【考察】どうして”強くなりたい”のか

ここ数年、自分では「こういうプレイヤーがいたり文化になったらおもしろそう」という理想と「SNSから垣間見えるポーカープレイヤー」という現実のギャップを探る感覚があったのだけど、考えれば考えるほど、「SNSから垣間見えるポーカープレイヤー」が求めているのは「誰かからの承認」なのではないかと感じられてしまう。

なんだかんだ、かっこいいとかモテや、いいね!とか。そういうものが強く人の気持ちを動かし、結果的にSNSも活発になるのだ。

モテとかいいねが人を動かすたいな話になると、すごく嫌な聞こえ方をしてしまうが、SNSマネタイズを除いてプレイヤー自身が自ら時間を費やして推敲や編集したりして発信し知名度やフォロワーを得ようとしてTwitterポーカー支部が活発になってきているという事実は認めなければならない。


なぜ「鉄強」という言葉は魅力的なのか

どうしておれたちは「鉄強」という言葉に心揺さぶられてしまうのだろうか。鉄強の一言だけでカッコイイと感じたり憧れたり気持ちよくなってしまうのはなぜだろうか。

それは、きっと「優しい」とかみたいに何かのアクションへの賞賛ではなく、ただそこにいるだけで発動するのが「鉄強」だからではないか。そして「鉄強」というのは日本独特の単語のように思うが、そもそもは「人間が鉄板をへし折れないレベルで勝つ強さ」といったような主観的とは思えない強さの表現を含む。ショーとしての戦いならばそんなニュアンスでは表現されない。野球や将棋で鉄強という表現を聞いたことがない。麻雀とポーカーでしか鉄強という単語を聞いたことがない。ポーカーで使われてるのは麻雀から派生してきている。上手いという表現もほかの競技より少ない。おそらく、プレイヤー自身がお金を張るからだ。お金を賭けて戦い相対する中で鉄板のように心折れないタフさと勝負強さを称える表現として「鉄強」という単語が生まれたのだと思う。お金を賭ける戦いはマインドが歪むものであり、その歪みはほかの競技における悔しさやプライドによるものとはまったく違う。お金が減る、理不尽な運に見舞われて。この性質があると同じ競技でもまったく異なる競技に変化する。頭によぎらざるを得ないお金の増減がプレッシャーを与え〇〇が買えるのに・・・といった損失回避バイアスが戦いの重圧を重くする。命のやり取りができない中でできる限り殺し合いに近づけた装置としてのお金によるこの重圧の増大は緊張感を張り巡らせ肉薄した勝負を作るのに大きく機能しているとおれは思っている。楽しくなるねおれは。

つまり、「鉄強」は”上手い”や”強い”とは軸の違う存在であって。次の瞬間に崩壊することがない、状態やアクションへのレスポンスではなく経済的豊かさが内包された「存在そのものの絶対的肯定」だから惹かれるのではないかということだ。余談だが経済的豊かさは間接的にモテにもなる。ステレオタイプな成功像を内包してるのだ。

鉄強というレッテルは脆い

矛盾してるようだが「鉄強」は脆い。常に崩壊の危機にさらされている。なぜならほとんどの「鉄強」認定はバイアスがかかっているからだ。そもそものスタートがずれていたりする。そのレッテルがいい加減であったりする。ポーカーの強さというのは曖昧で連続性がない。特定のスポットや特定の相手に限り圧倒的な強さを発揮できたりする。潜在的なミスはショーダウンにいかないと検知されにくい。野球やテニスは素人でも一試合みればかなりの精度で実力の比較ができるだろうがポーカーの実力を測るのはサンプルや前提知識が求められる。だからこそ賭博として長年成立しているわけだが、その性質は自分より強い人の強さを測れないという事を意味する。見たことがないプレーは風景と同一化され探知されにくい。ゆえに”強い”というのがどの程度強いか測ることが難しく結果として「鉄強」という言葉で一括りに伝播されているわけだ。ので、「鉄強」というは玉石混合になっている。
この性質によって多くのプレイヤーが自分のプレーを正直にさらけ出せなくなっていたりする。自分で自分を認められていない鉄強は発信頻度が下がってしまう。弱いと思われるのを避け素直でなくさせる。「鉄強」のレッテルに価値を感じすぎてしまうとそのレッテルが無くなるのを恐れるのだ。他人からどう見られるのかに意識が向きすぎている。

認められたいという欲求

この現象を解剖すると”認められたい”の一言に尽きると思う。これがポーカーの強さと結びついてアイデンティティに大きく寄与していたりする。いや、寄与しているというのは生温すぎる表現だ。それしかないと言っていいかもしれない。考えてみればわかるが、ポーカーの強さのみを追求するうえでは他人からの評価など価値はない。純粋にプレイひとつひとつを評価されるほうが強さに繋がるからだ。印象など与太話に過ぎない。しかし、現実には印象にばかりフォーカスして活動しているプレイヤーのほうが目立つ。それはSNS自体がそもそもそういう場所だというのもあるが、もうひとつの要因としてポーカープレイヤーは承認に飢えている人間の割合が多いのではないかと思っている。

なぜ認められたいが大きくなるのか

ポーカーは孤独だ。情報を渡せば不利になる。お金を賭けているからよりシビアだ。ゲームが抽象的で具体的な会話が発生しづらい。インターネットがあれば一人で完結できる。殻に閉じこもるインセンディブがある。さらにマイナーである。きっとほかの分野より趣味としても仕事しても人との関わりが少ないだろう。人との関わりが少ないと承認が発生しにくい。ポーカー自体を通しての社会貢献の実感が少ない。やがて誰もが疑問を抱くだろう。おれは何をしているのか?と。人間が社会動物である以上、人間が賭博を娯楽として位置付けている以上、ポーカーに浸ると必ず自問自答が襲ってくる。ガチになればなるほど時間や仕事や人間関係を犠牲にする。ふと我に返ったときその対価がまっとうであったのか考えてしまうのだ。これは儀式みたいなもんだとおれは思ってる。幼少期のアイデンティティ形成に反抗期が必ずあるようなもんwたぶんポーカーは過程において社会動物が必要なものを満たしにくいようにできてるんだろう。繋がりと承認。飢える。
ここで自問自答し葛藤せずとも楽になれる方法がある。飢えを満たせる蜜が溢れる場所。それがSNSだ。SNSの承認はお手軽で楽なのだ。数字で見えるからわかりやすい。簡単に取り繕える。いいねを貰うなんてごまかせばあっという間だ。嘘をつかなくとも自分の上澄みだけ選んで発信すればいい。おもしろく文を練ってツイートしてしまえばいい。本音を隠してネタとして昇華させればいい。本当は辛くてもピエロを演じれば笑ってくれる。余裕のあるときにアプリを開いて頭を捻れば人気者になれる。いいねだってお手軽な贈与だ。ノーコストなのでたやすく飛び交う。するといたるところで錯覚が生まれる。その錯覚は居心地がいいものだが浸りすぎると本質を置き去りにしてしまう。

本音を話せるやつが何人いるのかってはなし

承認の本質は「本当のお前」を認められるかどうかだと思う。他者もそうだし自分自身もそう。言い換えると本音を話せるやつが何人いるかって話になる。お前のフォロワーに本音を言える相手が何人いるんだ?数字に惑わされるな。本質を追え。
少なくともおれはSNSで背伸びする自分を自己承認できない。背伸びしてフォロワーを欺き手のひらで転がすことを楽しめるなら自己承認できるかもしれないがw目的が自分を満たすことでそれにハッタリを使うのは馬鹿げている。それって要は自分を騙してるでしょ。あまりにも危険すぎる。アルコールで酩酊して思考を放棄し問題を忘れてしまうように虚しい。飢えを忘れても飢えているのは変わらない。いずれ問題は現象化してしまうので意味がない。応急措置ですらなく人生の無駄遣い、自滅行為に見える。おれからするとそういうやつは人生フィッシュだ。ポーカーも当然フィッシュだ。

お前がお前を測るんだ

結論、正直になろうね素直になろうねってこった。ポーカーでいうとありのままを出したほうがいい。目的が実態と釣り合わないコーチング料や広告料金で稼ぐことならありだと思うよ。生存戦略のひとつには違いないから。そういう生き方って楽とは思えないんだけどね。本音を話せる生き方のほうが楽だよ。フィッシュプレーをつつかれまくって蜂の巣になったほうがいいよ。昔はみんなそうだったんだ。配信で垂れ流して無限に討論して荒れてそこで揉まれた。本音のぶつかり合いってそうなるもんだ。人間だからね。綺麗に編集して上澄みだけみせる一年後何が残るのか、何が残らないのか、何を手に入り何が遠ざかるのか、レンジで考えてみようぜ。おれは弱さをさらけ出せるやつが強いと思う。そう思っておれはlivetubeでも無限にプレーを配信したしライブポーカーですら疑問符が浮かぶプレーをツイートし続けた。リプライやラインや会ったときに突っ込まれたり議論して揉まれた。揉まれたというのは、受動的で控えめだな。サバンナに飛び込んで修行をしてた。ワンピースで麦わらの一味がバーソロミュー熊に島に飛ばされるノリよ。あれのセルフバージョンよ。刀が打たれる環境を作って刀鍛冶をしてた。結果、爆砕牙が出来上がったよ。覇気使えるようなったよ。
 本音を製鉄してみろ。精神ボディーブローを糧にしろ。耐えるのではなく吸収しろ。打ち方を捉え分析しろ。お前は自分で認められる強さを手に入れるんだ。他者に軸を任せるな。言葉で評価されるな。行動で評価されろ。結果で悟らせろ。だがSNSに軸を置くなよ。主人公はお前だ。読者は勝手に読むだけだ。お前がお前を作るんだ。お前がお前を測るんだ。

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