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下山の思想~読書記録74~

2011年に発行された五木寛之先生のエッセイ

3/11に東日本大震災が起こり、その後に書かれたエッセイであるという背景も知ると、感じ取り方も違うと思う。
当時の民主党政権における想定外の地震であった。
原発事故、東北の津波被害の映像、停電、品物不足によりコンビニの品不足、物不足を心配し買い占めに走る人たち。
これらの時期に、五木寛之先生が自分の想いを書かれた書なのだ。

今、未曾有の時代が始まっている。
この書が書かれた時代、年間自殺者が13年連続で3万人超えだ。

https://www.npa.go.jp/safetylife/seianki/jisatsu/R03/R02_jisatuno_joukyou.pdf


(ここで、警察庁のまとめたデータグラフをあげるのだが、2011年を境に減っているようなのだ。)

「民」と言う字の語源には残酷な意味がある。

漢字源から拾ってきたが、どういうふうにされたかの奴隷のようだ。
それを知ると、「人民」「民主主義」などの言葉も、良い意味に思われない。「君主主義」と「民主主義」
しかし、私たちは国に頼らなければ生きていけない。

私たちは今や下山の時代に生きている。人生も、いつも山を登るだけでない。登山、頂上、下山があり、山歩きなのだ。
しかし、多くの人は、「山を登る」ことだけに重きをおいて、下ることはあまり言わない。
登ったまま、山から下らないのは、仏門の修験者くらいか。
しかし、山を下る時にこそ、見えるものもあるのだ。山頂から見える景色など。

「少年よ、大志を抱け」と言われたクラーク博士の真の意味は、
「神のみ前に、それにふさわしい生き方を目指せ」という、熱烈なクリスチャンであり、キリスト教文化に根差すクラーク博士の考えがあるのだと思う。

日本の経済も、戦後の成長期には上るだけだったかも知れないが、今や下山の時代である。

「ローマは1日にしてならず」と言われるが、ローマ帝国滅亡も1日で起こったことではないだろう。それまでの積み重ねから滅んだのだ。

現実とは、過去、現在、未来をまるごと抱えたものである。人は今日を生き、明日を生きると同時に、昨日をも生きる。

考えてみれば、今の私たちの日々の暮らしも、人生という刑務所につながれて生きているようなものだ。人は生に縛り付けられて生きている。
何かを行う事と、何かを思うことは、両方とも人間的な行為である。
人は現実生活の中で傷つく。心が乾き、荒涼たる気分を覚える。
砂に水がしみこむように、歳月に心がしみこんでくる。今は帰らぬ季節。それは還らざる昨日であるからこそ、貴重なのである。

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