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イエスのまなざし~読書記録255~

1981年に日本基督教団(プロテスタント)出版局から出版された井上洋治神父のエッセイだ。
自然のささやきに耳を傾け、イエスの悲愛(アガペー)に生きる神父が生きとし生けるものに、人生の哀しみ、歓びを静かに語りかける。日本人の琴線にふれる珠玉のエッセイ12篇を収録。

山路来て 何やらゆかし すみれ草 松尾芭蕉「野ざらし紀行」より。
本書は、この芭蕉の句から始まる。
井上洋治神父をモデルにした遠藤周作の小説にもあったのだが、井上洋治神父は日本人なのだ。
つまり、四季を理解する、芭蕉の句をしみじみと味わう人だ。

井上洋治神父が主張したいのは、明治維新後にいきなりヨーロッパから伝来したキリスト教をそっくりそのまま受け入れるには抵抗があるだろう、と。
ヨーロッパの人たちが、およそ2000年もかけて自分たちの風土などに合うようにしたそれをそのまま、というのは抵抗はあるだろう。
欧米の文化には飛びつくが、キリスト教自体には敬遠を覚えるのではないかと、確かにそうだ。

キリスト教が日本において多くの人々の心に根をおろすことなしに全く上すべりの状態にあるということは、キリスト教を日本に紹介するにあたって、あまりにもこの心理構造の差を無視して、西欧の心理構造に照応するように西欧化されたキリスト教をそのままの姿で日本人に押し付けようとしたからではないだろうか。(本書より)

そうなのだ。日本に今ある仏教は、元々のインドの仏教とは違うと私は思っている。それは、最澄・空海時代から、多くの年月を経て、日本人に合うように、例えば神仏習合などの形でお寺に鳥居があったりで出来たものだ。だから違和感がないのだ。

明治以降からのキリスト教の布教方法というものが西欧的なものであったと神父は書かれている。
宗教とは土着するものだ。
だから、ユダヤ的キリスト教であったり、西欧的キリスト教であったり。
井上洋治神父がパウロについて書かれていた本には、「ユダヤ人にはユダヤ人のように、ギリシャ人にはギリシャ人のように」とあった。
明治以降の宣教師や日本人神父、牧師らが、それをしたとは私には思えない。井上洋治神父は別であるが。

古池や 蛙飛び込む 水の音 
この有名な芭蕉の句を上げて、井上洋治神父は日本人の心情を語っておられる。

京都・南禅寺にある柴山全慶和尚の詩を引用しての日本人の心も語られている。

『花は 黙って咲き 黙って散っていく そうして再び枝に帰らない
 けれども その一時一処に この世のすべてを託している
 一輪の花の声であり 一枝の花の真である
 永遠にほろびぬ生命のよろこびが 悔なくそこに輝いている』
花語らず


井上洋治神父が活躍されていたのは、もう今は昔。
現在、このように、日本人としての心を持ち、イエスを愛する神父、牧師はいないのではないか。
私はこう思っている。


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