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平成の大合併に思う

今や、山口県阿武町は人口わずか3000人を超える規模ながら、全国的にも有名な町となってしまった。
フロッピーディスク?は?と思ったのは私だけではないだろう。

製造さえされていない。

役場の職員も人員が少なく大変そうだし、お隣の萩市と合併した方が良かったのでは?とも思われるのだ。

合併しなかった理由はあったようだ。


さてさて・・・
個人的な事で申し訳ないのだが。
阿武町という小さな町と町長を日々、テレビで観ながら、私にとっては忘れられない方を想い出していた。
既に故人となっているが、私が高校時代に当時住んでいた家の隣の町の町長をしていた方だ。

秩父の合併を考える会の会長をここではされている。守屋氏だ。

高校3年生の2月。
高校時代の3年間、「もう1999年に地球が滅びるから」と排他的に過ごし、無気力人間だった自分。
就職も全て落ち、全く受験勉強もしないで受けた大学も落ち。
不合格の結果を見た日。私は山手線を何周も周っていた。お金もなかったもので、例えば、池袋や原宿で遊ぶなど出来なかった。

そして、西武秩父駅からバスに乗るも、そこからの自宅方面への乗り換えバスの最終便は既に終わっていた。
今でこそ、芸能人がバス路線を歩く番組も多いが、昭和50年代。完全に車社会の田舎。高校生でさえバイクだ。
しかも、今の私は軽快なリュックなのだが、当時はボストンバッグが流行っており、旅にはこれに着替えや沢山の本を入れて電車やバスに乗ったのだ。

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あああ、お気に入りのマディソンバッグ。。。今はダムの下やーーー。

氷点下の山道の2月。寒いのか何なのかわからないし、そんなのよりも、これからどうしよう。。。しかなかった。
人生終わったなと思っていた私に声を掛けてくれたのが当時の守屋町長であった。

「大丈夫かい?オジサンは小鹿野町の町長だから安心して乗って行きな」と。
ええと、ええと。と思って断っている所に、兄だったか祖父だったかが通りがかったのだ。
父を早くに亡くした私には、90代で車を運転し働いている祖父が父親代わりであった。

今思うと、小さな集落の守屋氏が開けた町の町長になった事も不思議に思うのだが、その辺の事はよくわかっていない。
ただ、偉い人なのに、威張ることなしに、親切で親しみやすい方であった事。嬉しく思った。

そして、その後。
まだ2次募集をしている短大を探し始めた。
その後、自宅に電話があった。高校の物理教師からだった。
「あそのこの短大、受けたら?自分の奥さんもそこなんだよ」と。
とんでもない田舎で、埼玉県の中で最下位の偏差値であった母校。
(そこしか自転車で通えるところがないと、中学時代に人生諦めたのだ)
何故か、その高校は、大学を出たばかりの新米男性教師が配属され、教え子とゴールイン!!💛と言うケースが多かった。その物理教師も教え子と結婚したのだ。
その物理教師は穏やかで授業も面白かった。私が今、茂木健一郎先生の著書やらツイートを読むのは、その教師の影響もあるのかもしれない。

で、まあ。そこの短大の試験は何故か簡単だった。特に英語。
それで簡単に試験に通り、浪人などならずに済んだのだった。有難や~。

そこで出会ったペリー、じゃなかったミズーリ州出身の宣教師。
田舎の人が言う鬼畜米英なんか嘘だった!!

ということで、守屋元町長の墓参りにはそのうちに行こうかと思うのだった。


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