松尾芭蕉の旅の最果て 秋田県象潟(きさかた)にて
元禄2年(1689)6月16日(新暦8月1日)、松尾芭蕉と河合曾良は三崎峠を越え、秋田県側の小砂川宿、関宿を経て象潟に到着。
酒田から船で象潟には入った。この川沿いには「芭蕉の足跡」が確かに窺える。
感慨に耽りながら、のんびりと道を歩いていると雨が降ってきた。
芭蕉が詠んだように、雨やないかーい。
ついでに、あと5分でホテルの夕食の時間やないかーい。
現代日本人よりも速足だった江戸時代の旅人並みに歩かねば。
象潟や雨に西施(せいし)がねぶの花
これは、松尾芭蕉が、おくのほそ道の旅での最北端、秋田県象潟で詠んだ句だ。
松尾芭蕉の像と西施の像がある。
こちらは、にかほ市の土地なのだ。
と、蚶満寺の親せきの方が言っておりました。私は、その人には18歳の時に知り合ったのでした。
〈象潟や雨に西施(せいし)がねぶの花〉。
象潟の美景の中、雨にぬれる合歓(ねむ)の花は、眠りについた西施の面影を彷彿(ほうふつ)とさせる、の意。西施は、越の国から呉の国王に献上された中国古代の美女のこと。
芭蕉の像の隣にある、ねむの木。残念ながらというか、私が勘違いをしていて、花はこれからだったのだ。
元禄2年(1689)6月16日は、新暦では8月1日になる。
秋田県民、秋田の犬に聴いても、
「ねむの花は7月終わりから8月に咲く」とな。。。
象潟駅のホームで一緒になった男性は、線路傍に植えてある、ねむの木を教えてくれた。
「ほら、まだ咲いてないっぺ。この駅は2本しか樹を植えてないんじゃ」←秋田弁。
宿泊ホテルの庭にて、僅かに咲いていた花を発見!!
よく考えてみると、秩父では目にしていたねむの木であるが、東京、横浜ではお目にかかった事がない。
更に言うと、こんなに沢山の草花も日頃見ていない。
満開のねむの花をただただ想像するのであった。
芭蕉が訪れたのが1689年。1804年に大地震が起こり地形が変わってしまったのだ。
私が訪れた時には、このように広く田んぼの続く地であった。
こちらが、松尾芭蕉の訪れた当時の象潟の風景らしい。
蚶満寺所蔵。持つべきものは同窓生?か!
義理の親せきに当たるらしく、特別に見せて頂いたのだ。
この屏風画で、ひときわ目立つのは、秋田県と山形県の境に位置する鳥海山だ。
酒田駅にある土産屋さんで購入したのだが、鳥海山は山形県だという。
翌日、タクシー運転手さんに聴くと、山形県と秋田県の県境にあり、山形県民と秋田県民の争いになることもあるのだそうだ。
富士山を巡る山梨県と静岡県のようなもんなのかな。
今現在、小高い丘になっている場所は、かつては日本海の入り江に浮かぶ島であったのだ。
今でも、所々、丘に島の名前がついている。陸地なのに不思議と思うなかれ。1804年の大地震の歴史を知ると、しっかりと理解出来るのだ。
人生は勉強や!
広い畦道をのんびりと歩くと、日常を忘れていく。
紫陽花の 色鮮やかなるや 畦道よ
実は、ここ象潟。
松尾芭蕉ファンの聖地だけではない。
なんと!撮り鉄スポットでもある。
駒留島の丘に登って電車を撮影。JR東日本の広告にもなった。
ついでに言うと、蚶満寺は前の住職が猫好きということで、保護猫施設も運営。沢山の猫に会える。猫好きにはたまらない場所でもあるのだ。
象潟や料理何食う神祭
と、曾良が詠んでいるのだが、この神祭は熊野権現神社の事らしい。
熊野神社は、場所的に言うと川沿いの、酒田から来た船を繋ぎとめる位置にある。
立派な社務所もあったのだが、撮影するのを忘れてしまった。
だが、しかあし!!
何人かの芭蕉場所研究家によると、おくのほそ道はかなりのフィクションであるらしい。
他の地は、別に記すとして、ここ象潟では、蚶満寺を指して、「此寺の方丈に座して簾を撒けば・・・」と書いているが、当時は、この地方は、曹洞宗同士の争いがあり、加賀大乗寺に間に入ってもらうほどのものだったとかで、芭蕉が蚶満寺に座したなどは考えられないのだそうだ。(現住職より)
また、寺からは、おくのほそ道で描かれているような風景は見えない。
時季も微妙に違っているようだ。
ここで、何人もの芭蕉研究家が言う「アリバイ工作説」が浮かんでくる。
水戸黄門こと、徳川光圀に頼まれ、曾良と共に旅をした芭蕉。徳川幕府がまだ完全には日本国中を治め切った感じのしない中、徳川に歯向かいそうな藩を調べる、スパイ的な活動をしたのがこの旅の目的なのだ、とか。
現地に行かないとわからない事が多くある。
人生は勉強や!
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