罪なきものまず石を投げうて~読書記録267~
日本のクリスティーと呼ばれた、仁木悦子さんが1960年に書いた短編だ。
現在、こちらの短編集にて読む事が出来る。
昭和35年秋、「別冊小説新潮」に載ったものです。どのようなことからヒントを得て書いたのか、今となっては記憶していません。ただ、風変わりな名探偵を登場させてみたいと考えて、主人公の牧師とその娘をつくりだした事は覚えています。この2人の対比だけでは、まだありふれたホームズとワトソンものの枠を出ていない気がして、もう1人、非行少年がかった(しかし根はお人よしの)若い男を配してトリオにしました。最初の計画では、このあと、3人の登場する作品を続けて書くつもりでいたのですが、なんとなくかきそびれて、この一作きりになりました。
その頃、私の友人に神学校を出たての若い牧師さんがいて、この人が、
「小説に牧師が出て来ると、なんだかそらぞらしくなっちゃうんだ。キリスト教とか牧師の生活とかを十分に知らない人が書くと、細かい所でおかしな点が出てきて。こっちは引っ掛かってしまうんだね。例えば、株式を扱った小説なんか、僕あたりは面白く読むんだけど、株屋さんが読んだら、引っ掛かる点があるんだろうな」
と言ったことがあります。私は、空恐ろしい気がしました。別に私のこの作品について言ったのではないのですが、特殊な職業の人について書いたり、専門的な知識を作品の中で取り扱うことに対する恐怖を感じたのでした。
もちろん、そんな事を言っていては作品は書けないし、今では随分心臓も強くなりましたが、駆け出しで、何をどう書くかという事を必死で模索していた時期だったのです。このトリオが一作きりでとどまったのは、その恐怖感のためだったかもしれません。(単行本化のあとがきより)
「題は聖書にある言葉です。まず主人公を先に考えてから、もう1人変わった人物を創ろうと考えました。チェスタートンのブラウン神父は懺悔という慣習のために人生の裏表に通じていますが、そういう一般人とは違った角度で犯罪に接している人物をサブ主人公にしたのです。話の筋は以前から温めていたもの。一般掲載することを考慮して、誰もが読みやすいものを狙いました」(筆者インタビューから)
ネタバレをしてしまおう。
全く信者のいない日本基督教団の教会の小宮山牧師は、妻に先立たれ娘と2人暮らし。
娘は幼稚園の先生をして家計を支えている。
近所に住む、もうじき18歳のマスエは小さい頃の病で、知的障害になってしまい、下駄屋を営む祖父と暮らしている。
目下、日曜礼拝は、牧師父子にこのマスエと3人だ。
ひょんなことから、牧師一家の家に上がり込んだ若者。
隣の家で起こった殺人事件。
多分、警察は犯人がわからず迷宮入りするのだろうが、この牧師はしっかりと犯人を特定していた。そして、犯人がわからないように、わざと指紋を消すような所作をするのだ。
犯人は下駄屋の徳蔵爺さんであった。殺された男性は女好きで、爺さんの孫のマスエは妊娠していたのだ。爺さんは、孫に問い質し、その男を殺害する。
小宮山牧師は、たびたび「罪のないものが石を投げよ」と言う。この下駄屋の徳蔵爺さんを知らんぷりして見逃すのもそれから来ている。
そういえば、仁木兄弟の作品でも、犯人を見逃す、というのもあった。
仁木悦子さんは知らないが、仁木悦子さんのご両親は、プロテスタント信者だという。だから、教会学校などでそれを聴いたのかもしれない。
当然、聖書も持っていただろう。
人の良い小宮山牧師であるのに、信者が全くいないのは寂しいなとも思うのであった。
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