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臨死体験~読書記録394~

2000年 立花隆先生のルポ。

「臨死体験」をめぐり、世界中の体験者・医師に取材した記念碑的ノンフィクション!
まばゆい光、暗いトンネル、亡き人々との再会――死の床から奇跡的に甦った人々が、異口同音に語る不思議なイメージ体験。その光景は、本当に「死後の世界」の一端なのだろうか。人に超能力さえもたらすという臨死体験の真実を追い、著者は、科学、宗教、オカルトの垣根を越えた、圧倒的な思考のドラマを展開する。
科学はどこまで臨死体験の核心に迫りうるのか。生物学者や神経学者は、様々な実験や仮説によってそのメカニズムの解明に挑み、成果をあげてきた。しかし、なお謎は残る。蘇生した人々はなぜ、本来、知るはずのない真実を知ってしまうのだろうか……。
構想、取材、執筆に五年。発表と同時に大反響を呼んだ著者渾身の大著。


改めて、立花隆先生の気迫を感じる本であった。
私個人の感想だが、立花隆先生は「死」について真剣に追及したかったのだろうと思うのだ。
他の人は、ここまでの熱心さはない。なんとなく、一神教の神やら観音菩薩やらで済ませてしまう感じだ。

多くの例示が挙げられていたが、2つばかり印象に残ったものがあった。
それは、石原慎太郎氏が弟の体験を語っているものだ。石原慎太郎氏の弟・裕次郎は剥離性大動脈瑠の手術のあと、1週間ばかり意識がもうろうとしていたのだが、その時に、川の夢を見たという。あれが三途の川なんだろうな、と意識が戻った後に言ったそうだ。

そして、キリスト教を世界的な宗教にしたパウロの改心。あれも臨死体験なのだという。聖書の中には、パウロが体験したことが書かれている。

コリント人への第二の手紙12章
1 無益なことですが、誇るのもやむをえないことです。私は主の幻と啓示のことを話しましょう。 2 私はキリストにあるひとりの人を知っています。この人は十四年前に—肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです、—第三の天にまで引き上げられました。 3 私はこの人が、—それが肉体のままであったか、肉体を離れてであったかは知りません。神はご存じです、— 4 パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。 5 このような人について私は誇るのです。しかし、私自身については、自分の弱さ以外には誇りません。 6 たとい私が誇りたいと思ったとしても、愚か者にはなりません。真実のことを話すのだからです。しかし、誇ることは控えましょう。私について見ること、私から聞くこと以上に、人が私を過大に評価するといけないからです。 7 また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。 8 このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。 9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。

パウロは、元々の病気があり、度々、意識不明になるようだ。その中で啓示を受けた。と。

それをどう捉えるかは個々人の感じ方による。私としては、あまり深入りはしない。

私自身は経験してはいないが、臨死体験は実に多くの人が体験しているのだなと知った。
だが、死んでからのことなぞ実際は誰にもわからない。
確実にはわからないものを信じるのが信仰なのだ。
そういう意味では科学も宗教かもしれない。


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