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梶原景時が休んだ茅葺屋根の寺 鎌倉市梶原 高野山真言宗休場山等覚寺 私の百寺巡礼267

鎌倉は常に混んでいる。多くの人はそんなイメージを持たれていると思う。
だが、しかあし!!
裏鎌倉と呼ばれる数か所。歴史好きが行くと楽しめる所であるし、休日であるに関わらず観光客が全くいないのだ。
写真撮影が楽過ぎる。


大船駅から湘南モノレールにゴイゴイスー!

江ノ島に行く時には、大船駅からモノレール!が一番速くて楽で、しかも混んでいない。江ノ電と小田急は混みすぎ。
だが、こちらの湘南深沢駅は通過する駅という認識でいたのだ。

駅から徒歩圏内にある神社寺院、これら鎌倉時代の武将、梶原景時ゆかりの場所ばかりだ。

梶原 景時(かじわら かげとき)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。鎌倉幕府の有力御家人。
石橋山の戦いで源頼朝を救ったことから重用され侍所所司、厩別当となる。当時の東国武士には珍しく教養があり、和歌を好み、「武家百人一首」にも選出されている。源義経と対立した人物として知られるが、頼朝の信任厚く、都の貴族からは「一ノ郎党」「鎌倉ノ本体ノ武士」と称されていた。鎌倉幕府では頼朝の寵臣として権勢を振るったが、頼朝の死後に追放され一族とともに滅ぼされた(梶原景時の変)。

深沢小学校の裏の山裾に梶原父子の墓と伝えられるやぐらがある。五輪塔が四基並んでいる。梶原景時とその子・景季・景高らである。

梶原景時は源頼朝が平家追討の挙兵時に活躍した有力御家人であった。また景季は宇治川の先陣で知られている。源頼朝が正治元年(1199)正月13日に亡くなると、幕府の政治は13人の有力御家人による合議制で運営された。 この13人の中に梶原景時も名をつらねていたが、告げ口屋として、御家人の間で悪評が高く、特に三浦義澄、和田義盛、畠山重忠らの実力者が中心となって梶原景時を弾劾した。正治2年正月、一族が京へ向かう途中の駿河の清見関(静岡清水市)で、幕府の手先の地元の武士に襲われ、梶原一族は全滅した。

湘南モノレール湘南深沢駅の近くの静かな住宅地の中にある寺は、古義真言宗高野山派の休場山弥勒院等覚寺である。もと手広青蓮寺の末寺。今は高野山宝寿院の末寺。開山は、秀恵僧都(しゅうけいそうず)で応永年間(1394~1428)の創建と伝える。本尊は不動明王。他に子育て出世地蔵像と虚空蔵菩薩像がある。境内には新田義貞の鎌倉攻め(元弘3年、1333)の戦死者を弔う五輪塔や宝筐印塔と大師堂があり、石造の弘法大師像が安置されている。明治5年(1872)の学制公布の際には、寺を学校として使い、「訓蒙学舎」としていた。いまの深沢小学校の前身である。なお、この寺はもと現在の深沢中学校に近いところにあったが、中学校の建設のため現在の地に移転した。山号の「休場山」には、むかし梶原景時がこの地を通ったとき、このあたりで休んだので「休場山」となった、とされる伝承がある。


見事な茅葺屋根が歴史を感じさせる。

御大師様

暑い日であったが、緑が多く落ち着いた静かな人のいない寺院。
裏鎌倉の魅力を知るのであった。

そもそもは、湘南深沢駅周辺を知ったのは、うちに数ヶ月ばかりいた猫のるるがお嫁に行ったのが、この辺りだったからだ。正確に行くと、もう少し長谷大仏に近い。

るる。なんていい場所にお嫁に行ったんだーー。元々はボロボロの横浜市西区のアパートにおったんやないか。

るる、ありがとう!

風青し 裏鎌倉に 招き猫

高野山真言宗休場山等覚寺
神奈川県鎌倉市梶原1-9-2
湘南モノレール湘南深沢駅より徒歩3分


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