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俳句まとめ 2024年8月

ホトカミだのインスタに投稿した俳句をまとめました。
8月版です。


百日紅 境内見守る 無人寺

小田原市・臨済宗永久寺さんにて。
山を登って行くと、見事に廃寺でした。
お墓は沢山ありましたので、檀家さんは多いのだと思います。
百日紅の花が無人となった寺院を守っているようでした。


スカイツリー 寺町見下ろす 水遊び

押上駅とスカイツリーの目の前にあるのが春慶寺だ。押上駅から向島に行き、最後に春慶寺のコースを辿ったのだが、あれ?お寺?と思ってしまった。大きなビルなのだ。

皆様、こんにちは。春慶寺第27世住職の齋藤堯圓です。昭和58年に縁あってこの寺に参りましてから約40年が経ちます。先代のご住職が亡くなられて長らく空き寺になっていた春慶寺は、地所が約40坪、檀家さんが3軒という状態でした。奇特な普賢菩薩様のご信者の方が建築費用をご寄進くださり、お堂が再建され、毎日お経をあげるうちに寺に活気が戻り、お参りの方が少しづつ増えました。仏様が結んでくださる縁、仏縁に深く感謝しております。平成13年に浅草通りに面した現在の堂宇を得てから早や20年、寺の復興に全力で取り組んでまいりましたが、本年古稀の誕生日を機に、お釈迦様が説かれた真理の教え妙法蓮華経を世界に広めるという出家得度した時からの夢を実現するために、再スタートを切る決意をいたしました。(お寺のページより)

もしかしたら、ここは江戸時代の本来の場所とは違う?などとも思ったのだ。だが、今の住職は空き寺で檀家さんも少ない中から、こんなに立派なお寺に再建したのであるから素晴らしいなと感じる。

ビルの中に入ってみた。1階は誰でも気軽に参詣出来る場所であるが、他の階は檀家さん専用の施設のようだ。両国の真言宗寺院でもこういったビルタイプの大きな寺院があったのだが、都会では今後はもしかしかたら一般的になるのかもしれない。

と思いながらも、鬼平犯科帳の舞台に想いを馳せながら、エントランスにあった普賢菩薩に手を合わせ、災害復旧募金に献金した。日本テレビのような、どこにどう使われるかわからないチャリティーなどよりも、お寺や教会などを通した方が私としては納得するのであった。

下町も変わるもんなんだな・・・目の前のスカイツリーソラマチ広場では、子どもたちが仮の水浴び場で遊んでいた。かつては打ち水をし、墨田川で遊んだのであろうか。



安居(あご)の地や 静まる寺院 安居(あんご)かな

静岡市 久能山東照宮に行く道中にある曹洞宗安居山石蔵院です。

応仁元年(一四六七年)有度浜沖に夜々霊光を放ち、綺雲が四方にたなびいているのを見た漁師が海中に網を放ちました。そして引き上げられたのが、丈3尺程の自然石で出来た地蔵菩薩でした。そのお地蔵さまは大変霊験あらたかだった為、村民達は謹んでこの霊像を敬い、堂宇を建ててお祭りしたのが起源とされております。その後、徳川家康公が駿府城へ隠居をする際、当時関三刹の中の一か寺であった千葉県市川市の総寧寺十八世勝国良尊大和尚に「 駿河の地に法燈相伝の敵地がある」と勧めました。そして慶長十二年(一六〇七)五月、殿堂を建てて勝国良尊大和尚を御開山としてお迎えしたのが当山の始まりとされます。以来、家康公は開山大和尚の高徳に帰依し、雪の朝、雨の夕暮れ、御前に侍して法談され、時が短い事を嘆かれ、神君は其の優れた人格を称え、崇拝の心が益々篤くなったそうです。元和二年(一六一六)四月、家康公が逝去された時には当山に一度霊柩を安置し、住職が香華を供え送棺されたとされております。(曹洞宗ナビより)

家康が子供のころ立ち寄ったり、柩を安置したことで有名。家康の家臣井出八郎右衛門の墓がある。

曹洞宗寺院であるが、家康公と深い関りがある。

こちらの寺院。お葉付銀杏の樹で有名だ。静岡県の天然記念物にもなっている。
確かに、葉からそのまま実がなっていた。
素晴らしい樹であった。

尚、安居という地名であるが、俳句の季語にもなっている。

安居(あんご)とは、夏に僧が一室に籠り修行すること。陰暦四月十六日から七月十五日まで。日本では禅宗で現在も行われている。【来歴】『増山の井』(寛文7年、1667年)に所出。【実証的見解】安居はサンスクリット語(梵語)でvarsa(ヴァルシャ)、雨に関する意を訳したもの。インドで始まった安居の本来の目的は雨期に活発になる草木や昆虫、小動物に対する無用な殺生を防ぐため、個々に活動していた僧が、一定期間ひとところにこもって修行しようというもの。釈迦在世中より始まったとされる。その後、仏教のとともに中国や日本にも伝わり、現在でも禅宗では、その修行が続いている。安居に入る「結制」は旧暦の四月十六日ころ、安居が明ける「解夏」は旧暦の七月十五日ころ、供えられる仏華を「夏花」、写経を「夏書」という。この期間修行僧たちは寺から一歩も外に出ず修行に精励する。【例句】しばらくは滝に籠るや夏の始め芭蕉「奥の細道」

夏百日墨もゆがまぬこころかな 蕪村「落日庵句帳」

久能山東照宮を中心に、この安居という地。どうも聖地という気がしてならないのである。といっても、私の考えすぎかもしれないが。


蓮咲きて 家康祀る 岡崎よ

愛知県岡崎市の伊賀八幡宮に参拝しました。
徳川の葵御紋が見えます。

松平家(徳川家の祖)の4代親忠は、文明2年(1470)に氏神として伊賀八幡宮を勧請し、松平家の守護神として創建されました。
5年後に氏寺(菩提寺)として創建の大樹寺と共に、江戸時代にわたっても将軍家の厚い崇敬をうけました。
家康公も、大きな合戦の時には必ず参詣したといわれ、徳川家の武運長久・子孫繁栄の守護神とされています。
のちに3代将軍家光が境内整備し、家康公(東照大権現)を祀りました。
本殿・隨神門・神橋など、ほとんどが国の重要文化財です。
岡崎春の風物詩家康行列の出発地で、家康公の戦勝祈願に習って出陣式が行われます。
葵御紋のお守りは必勝祈願アイテムとして要チェック。
7月には蓮の花も開花し、撮影スポットとしても人気です。
毎年1月の大寒の日に、28mはなれた場所から矢を放ち檜の的板のわれ具合によってその年の豊凶を占う「武者的神事」が行われ、その結果に毎年多くの観衆が関心を寄せています。
占いは「矢が的に当たる」「当たるが割れない」「2つに割れる」「3つ以上に割れる」の4段階で判定されます。(岡崎市観光案内より)


深き寺 純情きらり 万緑や 

愛知県岡崎市の昌光律寺に参拝しました。
純情きらりのドラマの舞台で有名となった岡崎市。
ここのお寺は百選に選ばれていますが、庭が綺麗なことで有名です。

三河地方浄土律院の根本となるべき道場として、宝暦13年(1763)徳巌和上が松林院を改築して昌光律寺を開設しました。
歴代学識高い住職が歴任しましたが、なかでも7代万空和上は詩文を好み、京の頼山陽とも付き合いがありました。
また画家月僊とはきわめて交わりが深く、来訪時の作品が多く保存され「月僊寺」ともいわれています。
苔むした庭園には、白カシの大木があります。(岡崎市観光案内より)


酷暑尚 いちいちごくろう 久能山

久能山東照宮に参拝しました。

久能山東照宮は、徳川家康公をご祭神としておまつりする全国東照宮の創祀です。
徳川家康公は、天文11年(1542年)12月26日三河国岡崎城(愛知県岡崎市)にお生まれになり、あらゆる艱難辛苦の末、戦乱の世に終止符を打ち、江戸時代260余年にわたる世界に其の比を見ない「泰平の世」の礎を築かれ、学問、産業、文化の基礎を確立し近世日本の発展に偉大な功績を残されました。
晩年は大御所として駿府城に在りましたが、元和2年(1616年)4月17日、波乱に満ちた75年の生涯を閉じられました。
徳川家康公は生前、家臣に対し、自分の死後について「遺体は駿河国の久能山に葬り、江戸の増上寺で葬儀を行い、三河国の大樹寺に位牌を納め、一周忌が過ぎて後、下野の日光山に小堂を建てて勧請せよ、八州の鎮守になろう」(『本光国師日記』より)との遺言を残されました。
この御遺命により御遺骸を久能山に埋葬し、その地に2代将軍秀忠公の命により久能山東照宮が創建されました。

「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。
不自由を常と思えば不足なし。心に望みおこらば困窮したるときを思い出すべし。
堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え。
勝つことばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。
おのれを責めて人をせむるな。及ばざるは過ぎたるより勝れり」

徳川家康公のこの言葉が似合うのは、まさにここ久能山東照宮であるかもしれない。


古屋市の総鎮守。若宮八幡宮に参拝しました。
スッキリとした綺麗な神社でした。
茅の輪くぐりもしました。

風鈴や 迎える鎮守 愛名古屋


庭には私の大好きなダリアの花が咲き誇っています。
群馬県利根郡川場村の吉祥寺にて。

ダリア咲く 地蔵も楽し 山寺よ


群馬県吉祥寺の百合です。

吉祥寺(きちじょうじ)は、群馬県利根郡川場村にある臨済宗建長寺派の寺院である。山号は青龍山。本尊は釈迦如来。東国花の寺百ヶ寺群馬11番札所。2月11日には、地区の青年団員が女装をして地区の家々を回る奇祭「春駒祭り(県指定重要無形民俗文化財「門前春駒」)」が、寺内にある金甲稲荷本堂へ奉納される。
この寺は、1336年(延元元年)大友氏泰が父貞宗の供養のために大友氏の所領であった上野国利根郡に以前から帰依していた中巌円月を開山に迎えて創建したと伝えられる。1352年(文和元年)には北朝方の天皇の勅願所に指定され、臨済宗の寺格である諸山に列せられた。

「青龍山 吉祥寺」は、鎌倉にある「建長寺」を本山とする禅寺として、1339年に創建されました。建長寺を本山とする400余りの寺院の中でも一番北に位置する寺院で、「建長寺北の門」とも呼ばれています。 境内には1675年に建てられた本堂をはじめ、釈迦堂や山門など歴史を感じられる建築物が108坪もの寺院の敷地内に複数あります。 「青龍山 吉祥寺」がある川場村は、村の中に4つの一級河川が流れるほか、武尊山からの雪解け水など、豊富な水で稲作が盛んに行われている村。「青龍山 吉祥寺」の庭にも複数の池や滝があり、川場村の豊かな水を感じられる場所があります。
~群馬県川場村の観光案内より~

山門に向かう前から山百合の独特の香りが染みて来る。山百合の香りについては、好き嫌いが分かれると思う。特に田舎の人なんぞは歩いていて服に花粉が付くからイヤ!という人もいる。
だが、私は好きな香りだ。都会ではあまり見なくなったような気もするが、都会の花屋さんで見る百合とは又味わいが違う。都内の百合というと、東京都知事一択になるからだろう。

百合の花 都内と山路 異なりし


池の前に鮮やかに咲く花はミソハギ。
花寺と呼ばれるだけ群馬県利根郡川場村の吉祥寺です。

観音池 廻り囲みし ミソハギや


初芒 処女の汗も ゆらぎしか
初芒 ゆらぐ林道 奥鬼怒よ

奥鬼怒温泉郷にて、宿からバス停まで約8㎞。未舗装路を歩きました。
今年、初めてのススキでした。


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