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山田洋二監督の世界が広がる参道 葛飾区 柴又帝釈天(日蓮宗経栄山題経寺) 私の百寺巡礼152

柴又帝釈天と言うと、昭和生まれの人間は山田洋二監督の名作「男はつらいよ」を思い浮かべるのではないだろうか。

“私生まれも育ちも葛飾柴又です 帝釈天で産湯を使い 姓は車 名は寅次郎 人呼んでフーテンの寅と発します”

渥美清演じる寅さんは下町情緒に溢れ素晴らしかった。


大珠院さんから直通のバスがあるというのでバスにて柴又に。
と言いつつも、駅の方に行ってみた。


参道は山田洋二監督の世界そのものだった。団子屋さんに葛餅の店に雑貨屋さん。巣鴨商店街や川崎大師参道のような、こんな通りが私は大好きだ。


あまりの暑さに私の汗がカメラのレンズに・・・

 帝釈天はインド最古の聖典である『リグ・ヴェーダ』の中で最も多くの賛歌を捧げられている軍神・武勇神インドラと呼ばれる重要な神さまです。漢字に音写して釈提桓因(シャクダイカンニン)」と呼ばれて梵天と共に護法の善神とされています。帝釈天は須弥山の頂上の喜見城に住んでいて、忉利天に住む神々の統率者です。しかも正法を護持し、仏の教えを聞いて、柔和にして慈悲に富み、真実を語り、正法に従う正しい神さまです。しかし仏陀の教えを聞くまでは、諸天を糾合して阿修羅と戦っていた荒々しい神でもありました。帝釈天は三十三天(忉利天)の主であると同時に四天王を統率し、人間界をも監視します。即ち衆生が殺生、盗み、妄語等を為さないか、父母に孝順であるか、師長を尊敬するか、貧しい人に施しをするかどうか、毎月八日、二三日には人間界に使者を遣わし、一四日、二九日には王子を遣わし、一五日、三〇日には四天王が自ら姿を変えて人間界を巡歴し、衆生の善悪の事を監察するといわれています。従って人々はこれらの日を六斎日といって行いをつつしむのです。(お寺のパンフレットより)

緑の多い下町の中、本当に23区なのだろうか?ここだけ伐採女王の支配から逃れているような緑多い中は涼しかった。


又、五木寛之先生の著書より引用したい。

経栄山題経寺。(きょうえいざんだいじょうじ)こう書いてもピンと来る人は少ないだろう。門の前に「柴又帝釈天」と彫った大きな石碑が立っている。これが通称である。通称の方が大書されるほど、ここは柴又帝釈天として知られている。
二天門は量感があって、堂々としている。庶民的な参道を抜けたところに、このようなおごそかなたたずまいの寺が待ち受けているのは、新鮮な驚きだ。左手に見える大鐘楼も、組物が美しく風情がある。
そして、門をくぐると懐かしさも込み上げてくる。やはり、映画で親しんだ光景だからだろう。鐘楼の下から、箒を持った蛾次郎が現れそうだ。或いは、笠智衆扮する住職の肥後弁が聞こえてきそうな気がしてしまう。
境内は砂利が敷き詰められ、二天門ぁら帝釈天まで真っ直ぐに石畳が走る。帝釈道には、独特の風格が漂う。その堂宇の正面脇には、枝を青々と豊かに広げた松が、参詣者を迎え入れていた。

柴又帝釈天は日蓮宗の寺である。寛永年間(1624年~44年)に創建されたと言われる。本尊は、日蓮聖人が彫ったと
される板彫りの帝釈天像である。板本尊と呼ぶ。
本堂の階段を上がる。正面の扉に彫り込まれた鹿や犬などの動物の彫刻に迎えられる。中に入ると、畳敷きの外陣があり、柵の向こうの内陣に本尊を安置する厨子があった。板本尊は秘仏とされ、庚申の日の他には普段は開帳されないのだが、この日は特別に厨子を開けていただいた。しかし、厨子の周りこそ金色に荘厳されているものの、厨子の中は真っ黒で像の判別がつかない。
お寺の方の案内で内陣に入れていただき、間近に本尊を拝観した。説明によると、始め白木の板に彫ってあった本尊だが、墨を塗って紙などに写し取り、それを信仰する人々に配っているうちに真っ黒になったそうだ。
照明を当てると、やがて本物の姿が浮かび上がった。左手に剣を持ち、怖い表情をしているのがおぼろげに見える。悪魔を降伏する姿であるらしい。

この本尊は、中世の一時期、行方不明になっていた。しかし、安永8年(1779年)、中興の祖と称えられる日敬上人が荒廃した本堂を再建しようとした時、偶然に天井裏から発見されたのだそうだ。
ちょうどその日は、春庚申の日だった。これは縁起がいいというので、それ以来、庚申の日を縁日にすることになったという。

日本では、人間の罪の報告を聴くのは天帝ではなく、帝釈天や書面金剛であると考えられた。だから、帝釈天の板本尊が発見されたのが庚申の日だったのは非常に意味があった。そして、題経寺再興を目指す日敬上人が、衆生救済の為に板本尊を背負って町中を歩き、布教したこともあいまって、柴又帝釈天は、庚申信仰の対象として広く知られるようになった。
もう1つ、江戸町民の間に帝釈天信仰が爆発的に広がった要因に、たびたびの災禍がある。板本尊が発見されて間もない頃、江戸は大洪水や大火などの災害に見舞われた。更に天明3年(1783年)には浅間山が大噴火を起こし、続いて大飢饉が起こった。
日敬上人が板本尊を背負って歩いたのはこの時で、本尊は病除けに霊験があるとされると説いたのである。こうして帝釈天信仰と庚申信仰が結びつき、多くの江戸町民が柴又の帝釈天を参拝するようになっていく。


実は、本堂の奥に有力での彫刻ギャラリーがあったのだ。五木寛之先生の本でも紹介されていたが、暑いのと早く帰りたいのとで観ないでいてしまった。
そして、数日経ってから後悔している。


こちらは拾い画像になる。あああ、後悔。


そして、柴又帝釈天参道にて買った品だが、この作品。
園田正信さんという葛飾では名前を知られた彫刻家らしい。

はじき猫が可愛らしくて衝動買いなり。


ということで、この彫刻を観に熱中症にならない季節に又行きたいと思うのであった。

日蓮宗経栄山題経寺(柴又帝釈天)
東京都葛飾区柴又7-10-3

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