見出し画像

かもめのジョナサン 考察~読書記録9~

かもめのジョナサンは、1970年にアメリカでリチャード・バックにより著された。
日本では1974年に五木寛之先生の訳により紹介された。
だが、つい先日、五木寛之先生の本で知ったのだが。これは「翻訳」とはなっていない。「創訳」なのだ。忠実に翻訳したというよりも、ところどころ五木寛之先生独自に付け加えたり、削除したりがあるという。英語版の本も短いので読めるからそちらを。とも書かれていた。今はパソコンで簡単に正確な翻訳も出来るのでそれもいいかもしれない。
思うに、星の王子さまも赤毛のアンも訳者が違うと違うものになる。

こちらの本は2013年に刊行された完全版となっている。part4が新たに付け加えられたものだ。

Part1は、若き日のジョナサン・リビングストン。食べる為に飛ぶではなく、飛ぶことを求める。そして、群れを追放される。ここは俗世間だろうか。

Part2は、違う場所に行ったジョナサン。彼のような志を持ったかもめに会い、飛行技術を先輩から教わり、ただひたすら飛ぶことを追求する。まるで修道院のようでもある。異性がいない。

Part3は、ジョナサンを慕い集まった弟子たちと共に群れに戻り、飛ぶことを教えるジョナサン。最後には弟子の1人に託し、どこかへと旅立っていく。修道会から遣わされた宣教団体のようだ。

1970年に刊行された時はここで終わっていた。

そしてPart4。
亡くなったジョナサンを聖人、偶像化し。ロザリオのような意味のわからない祈りを唱え、儀式化した群れ。そこに疑問視した若者。
これがなかったら本当に作者の言いたかったことはわからなかったであろう。
40年以上も実にかかっている。

ただただ飛ぶ意味を求めたジョナサン・リビングストン。
五木寛之先生の解説でもあったが、ここには食べる事、性欲を良しとしないものがある。私的には、俗世間→修道院→宣教団体→天と考えた。
食べる事は必要であるし、性欲のどこがいけないのか?(こういうところが私がプロテスタント的なのだろう)他の動物や植物の犠牲で食べて生きること。異性と交わり子孫を残す事。これよりも崇高なものを求めるのがわからに人にはわからない。(まあ、今は世界中、修道院に入りたがる人は減っているが)
新たな加筆では、ジョナサンの亡くなった後、彼が聖人となり意味のわからない祈りを唱えるような。カトリックの祈りの本みたいな。
偉大な人の死と共に偶像化されることを五木寛之先生は、法然上人、聖フランチェスコの例をあげて、生きる姿勢を説いた人の死後、偶像化すると解説されていた。
ちなみに、リビングストンは生ける石。キリストを表す。
私の尊敬する故・高尾牧師は、儀式的なキリストの死と復活の典礼より、生きていた間のイエス様の生き方に倣うを言われた。マルコ福音書には若き日のイエス様の生きざまが書かれている。
法然上人しかり、若き日のイエス様しかり。生きている時の生きざまを見る事。
フランチェスコやザビエルやパウロなど本当に聖人とされて、キリスト以上に敬われたかったのか?
又、法然上人、親鸞聖人なども釈迦以上になりたかったのか?
生きている時は私たちと同じように求道者ではなかったのか。
私がカトリックに馴染めなかったのは、あまりにも自分とはかけ離れた儀式的な、皆さんと同じ文句を唱える事だった。自分自身の言葉で神に語らない。聖人の偶像化。

五木寛之先生とは又違う感想になったが、世に出た本やツイートは個々人、違う解釈で良いと思う。自由だから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?