見出し画像

山全体が神社 埼玉県飯能市 秩父御嶽神社

西武池袋駅から飯能駅まで行く。(ここまでは急行もあり、本数もあり楽だ)そこから秩父行きに乗換え、各駅停車で吾野駅に。




吾野駅から20分ほど歩くと、鳥居が観えて来る。高麗川を渡ると目の前に迫る深い緑の山。


この山は、東郷公園と言われているが、全体が神社であり山信仰の感じがする。


さあ、ここから山道だ。足とお尻に力が入る。

砲弾はバルチック艦隊主砲々弾、水雷は旅順港口に浮設されたもの。
日本軍が引き上げたものを後に海軍省から下賜されたという。


東郷元帥像

ここからは、東郷神社となっている。ここでは、御嶽神社の他に東郷神社の御朱印も頂ける。

東郷神社の横には、ロシア製の大砲が納められている。

東郷平八郎元帥とは・・・
吉左衛門実友の四男として1848年(弘化4年)、鹿児島城下の下加治屋町に生まれた東郷平八郎。下加治屋町は、西郷隆盛大久保利通など、維新の豪傑を多数輩出している。戊辰戦争では軍艦「春日」に乗り組み、蝦夷地まで行き榎本武揚の旧幕府艦隊と戦い、1871年(明治4年)にはイギリスに渡った平八郎。
商船学校で蒸気船の操縦などを学び、帰国後の1878年(明治11年)には軍艦「扶桑」の乗組員に。その後は軍艦の副長や艦長として海軍に所属し、海軍大佐にまで昇りつめた。
そして1891年(明治24年)に巡洋艦「浪速」の艦長となり、その地位のまま日清戦争にも参戦。途中、ハワイ女王へのクーデターの鎮圧にも参加している。
以降、海軍大学校長、常備艦隊司令長官、舞鶴鎮守府司令長官等を歴任し、日露戦争前には連合艦隊司令長官に就任した。

1904年(明治37年)に始まった日露戦争。この戦争を機に東郷平八郎は世界中に名を轟かせることになる。開戦後、日本陸軍は多くの犠牲を出しながらもロシア太平洋艦隊の拠点である旅順要塞を攻略した。
ロシアが満を持して送り出したのが「バルチック艦隊」。日本側はなんとしてもバルチック艦隊を撃滅し、その戦果をもって講和条約を締結したいと望んでいた。
そこで日本海海戦において東郷平八郎が用いた戦法がのちに「東郷ターン」と呼ばれるT字戦法だ。バルチック艦隊を発見すると東郷平八郎は全艦隊に出撃をかけ、バルチック艦隊とすれ違うように見せかけ直前で左へ向きを変えて進路を遮断。
バルチック艦隊が日本海にたどり着くまでの7ヵ月の期間に徹底的に射撃や夜戦の訓練をさせてきたかいもあり、敵艦は次々に炎上。ついには全滅にまで追い込んだ。のちに東郷平八郎が用いたこのT字戦法は東郷ターンと呼ばれることになる。
アジアの小さな国だった日本が大国ロシアの艦隊に大勝利したことは世界列強が驚いたと同時に、東郷平八郎が「世界の東郷」となった瞬間だった。


こちらは、ロシア戦艦の攻撃を受けた戦艦三笠の一部だ。
海軍省より下賜されたもの。


まさに山道を歩く!だ。


この石段。角度が90度?か!と思うほどのもので。1段は私の膝位まである。まあ、私の足が短いのもあるのだが、昭和までの日本人は体格的にも小柄だったろうし、このキツイ石段を登るのは大変だったろうなと思うのであった。
更には、写真でおわかりいただけるだろうか。苔がしっかりと生えていて、滑るのだ。
前日、ルミネでウエストポーチを買って正解だった。しっかりした重いトートバッグでは、苔で滑った時に危ない。

紫式部


飯能七福神の1つ、大黒天も祀られている。

そして、山道を登り、辿り着いた本殿。
赤く色づき始めたカエデの樹々が社殿を覆っていた。

緑が深い山の中であるが、カエデの樹が多い印象を受けた。多分、深い紅葉の季節に来るのが一番なのだろう。


そして、なんと!!
あんなに大変な思いをして登った山であるが、本殿まで軽自動車なら通れる道があるのだ。まあ、三峰神社と同じで、神社のスタッフ専用なのだろうが。

若い頃は、他人のペースで歩かなくてはならなかった為、外に出るのが大嫌いだった。引きこもりだった。もちろん、山や海なんか行かない。日焼け止めも塗らず、半袖であるのに夏でも真っ白い肌をしていた。それが今や、仕事も外仕事もあるが、真っ黒い肌をして山になんぞ登っている。多分、他人のペースを気にせず、追い抜かれても気にせず、マイペースで歩けるからだと思う。実際、普段、自転車を運転していても追い抜かれるというノロマな亀だ。それでも、歩ける事が楽しい。変形性膝関節症のリハビリも兼ねて、あちこち廻るうちに歩くこと自体が楽しくなってきた。いつの間にか、膝、肩の痛みも治まり、頻繁に通っていた整体も何ヶ月も行っていない。

聖なる山に感謝だ。

山頂に 社殿覆いし 初紅葉


秩父御嶽神社
埼玉県飯能市坂石580
入口は西武秩父線・吾野駅から徒歩20分

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?