ボイスレコーダー
飲み会の記憶というのは、酒を飲んでしまうとほとんど忘れてしまう厄介なものだ。
楽しい時間だったということは覚えていても、時間が経つとその内容もすっかり忘れ、食べたものも忘れてしまう。
あるときいいことを思いついた。ボイスレコーダーだ。
最近のボイスレコーダーは秀逸で、無音のときや雑音のときは反応せず、何かを喋っているときに自動的に録音されるようになっている。
後で聴くときも、すべてを聴く必要はなく、音声を自動認識してある程度の会話内容を吹き出し形式で表示してくれるので、それを確認しながら後追いすることができる。
あるとき、よく飲む4人で居酒屋に行った。男三人、女一人。
ひとりは神経質な男で、もう一人は意志の強い男だった。女の子は少し年が離れていて、ちょっとかわいい。われらのマドンナのような雰囲気だ。
このメンバーで飲むのは月に一度くらいだったが、いつも盛り上がるので楽しいのだ。
話が盛り上がってきたところで、ボイスレコーダーの話をしてみようと思った。飲みのネタとしては楽しい。
「実は飲み会のとき、ボイスレコーダーで録音して、それを後から聴くっていうのをやろうと思うんだ」
それはちょっと気味が悪い、そんなことを女の子が言い出した。
内向的すぎる、と神経質な男。
自分の趣味としては面白いかもしれんが、それをあんまり吹聴するな、と意志の強い男。
ネタになればと思って出した話だったが、総じて反対的な意見だった。
もっと肯定的に称賛されるのかと思っていたので、俺は意地になってしまった。
「いや、それでもこれは面白いんだ」
俺はそう強く言い切って、店を後にした。
なんだか気分が悪かったので、そのときの会話は再生せずに削除した。
試しに、一人で小さな小料理屋に入って記録してみることにした。
そこは名古屋風の味噌煮込みおでんが1,000円で5本まで食べられる店だった。ひつまぶしというのれんがあったので入ったのだが、まさか味噌煮込みおでんが食べられるとは思ってなかった。これは意外といい。
久々 に味噌カツや味噌煮込みおでんを食べながら、気持ちよく店のおかみさんと話していた。ハモのすり身の文字(もんじ)焼きという料理を作っている。割とドロ ドロにしたもので、それを文字状に焼いて皿に並べてくれるのだ。客の注文をある程度聞いてくれて、好きな文字を焼いてくれるという。
「へ~、なかなか器用に文字を書くんですね。でもこんな料理、初めて見ました」
「そうなんですよ。これは私のオリジナルで。最初は趣味でやってたんですけどね」
「手紙なんかも書けるんじゃないですか?」
「そうかもしれませんね。で、相手もすり身で返事書いて寄越したり」
「まさに手紙でハモるってわけですね」
などと調子のいいことを言っている。
こういう話を後からメモしておいて、何かを書くときの足しにできればいい。ボイスレコーダーは便利である。
それに、帰ってからメモを書き残すために、早めに切り上げなければと思う。お蔭で、いつもより早めに切り上げられるというメリットがある。
いくら効率よく再生できるようになったからと言って、メモを起そうと思えばそれなりに時間がかかる。
楽しい記憶を呼び覚ますので、議事録などのテープ起こしと異なり、その作業自体はとても楽しい。だが、時間はやっぱりかかるのである。
その店で強かに酔っ払い、別の店に行った。そこはバラックのような小屋で、オヤジが一人でやっているような小汚い店だ。
そこではおっさんとなぜか仲良くなって何やら話し込んだ。内容は全く忘れてしまっていたが、ボイスレコーダーが覚えてくれる。
その安心感から、かなり酔っぱらってしまった。前後不覚と言っていい。一緒に飲んだおっさんももうベロンベロンだ。
後から聴いてみたが、ほんとにしようがないことばかり言っている。ほとんどろれつが回ってなくて、お互いに何を言っているかわからない。
これでは全く役に立たない。やっぱり飲み過ぎはよくない。ボイスレコーダーも万能ではないのだ。
そんなわけで、飲み会でのボイスレコーダーが定着した頃。
また例の四人で集まって飲もうということになった。
前回のことを少し反省していた俺は、ボイスレコーダーの話は自分からはしないように心がけようと思っていた。
しかし、会が盛り上がってくるとボイスレコーダーの自慢をしたくてたまらなくなってしまった。現に今もこの会話を録音している。
それに気づいたのか、神経質な男が口を開いた。
「あのボイスレコーダー、まだやっているのか?」
「やってるよ、もちろん。今も録音している」
「やめてくれない? そんなの」女の子が言う。
「あの後、ひとから聞いたんだが……」
神経質な男が語り始めた。
ボイスレコーダー治療というものがあるらしい。精神科の治療として、会話の記録を取っておいてそれを後で分析するのだそうだ。
ただ、分析するのは診療医の仕事で、患者が自分でメモを起したりはしない。患者は会話の記録を取られていることを知らないこともあるそうだ。
「俺が統合失調症か何かだとでも言いたいのか」
俺は憤慨した。
まったく、なんて失礼な奴だ。こんな奴とひと時でも一緒に酒を楽しく飲んでいたとは。
「ああ、そうかもな。
俺はきっと解離性同一性障害か何かなんだろうよ。
それで治療のためにボイスレコーダーを持たされたんだ。
それを肯定するために今までの話をでっちあげでもしたんだろう。
自分の意志でボイスレコーダーを持ち歩いてるっていう理由付けのためにな。
そう言いたいんだろ」
俺は激昂して、席を立った。
「おい!」
意志の強い男が言った。
「いいか。お前はどうかしてる。今日の会話を後で聴いてみろ。冷静になってちゃんと聴いてみるんだ」
「知るか!」
出ていく俺の背中に、彼は言い放った。
「ちゃんと聴くんだぞ!」
何やら嫌な気分になりながら、俺は振り返りもせずにその場を後にした。
家に帰ってボイスレコーダーを再生してみた。
そこには、自分の声しか入ってなかった。