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舞台、俳優、表現とは何か?その深遠な考察〜郡司正勝「歩く」より①

こんばんは!本日もおつかれさまです。

ベリーダンサーのShala(シャーラ)です。

5/22(土)神楽坂セッションハウスでの公演「ENTER HEAVEN」に向けてリハーサルを重ねています。

ある夕刻、近所を散歩していると終わりかけの藤の花がとても綺麗でした。 

そういえばその昔お遊戯会で藤娘を踊ったなあと、それから歌舞伎の藤娘のことを思い出しました。

さらにはこちらの本を思い出したので、日曜日のワークショップでシェアしました。

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舞踏の大野一雄の稽古場へ通った90年代の終わり頃、指導をされていたご子息の義人先生がある日紹介してくださった本です。

まだまだ踊りはずぶの素人で、楽しいから誘われるままに色んなダンスを習っていただけで、踊りについて深く考えたこともなければ何か筋の通った考えを持っていたわけでもない当時の私の心に、すっと染み込んできた珠玉の言葉の数々。

日本の古典芸能の伝統を踏まえ、さらにはその源流を踏まえての深い洞察。衝撃的でした。けれども、DNAあるいは魂が「この感覚を知っている!」と微かに反応するようでもあり、今でも大切なバイブルとなっています。 

まずは、舞台とはどのようなところであるか、引用したいと思います。

舞台は

行動を探し求めること、身体を捜す旅に出ること、舞台は、その踏み台、飛び箱台でありたい。 
 少なくとも舞台とは、出来上がったものを上演するところ、陳列台にはしたくないというのが念いである。
 行動する者も観る者も、しばらくは生命を、魂を預からせてもらう。身体(からだ)を空(から)にしてしまう空間。そういう仕掛け箱でありたい。
 能舞台には、現実という俗界の自分を脱ぎ捨て、劇的人間像に乗り移る鏡の間という空間が仕掛けられている。すぐれた設計だったとおもう。
 そういう仕掛けを失ったわれわれは、現代という舞台のなかで、なにを仕掛けとして、現実を超克していったらよいのか。
 飛び立つ空間を見つけたい。現実に光の孔を明けたい。清らかな息(呼吸)をしたい。
 翌日(あす)のない朝に飛び立つのは嫌だ。舞台は墓場ではない筈だ。舞台を墓場にはしたくない。飛び立つことを忘れた舞台は舞台ではなかろう。

以上、p.6より

舞台とは振付を一生懸命覚えて完成させたものを発表する場所。これが当時の認識でしたが、そのようなものは舞台ではないということに驚きながらも深く頷きました。今では、ただただそのとおりと感じます。

何年ぶりかに読んで、この認識、言葉がいかに碇のように心の底に沈んでいたかが分かるのでした。

舞台、そこには空(くう)がある。。なんて素敵なことなのでしょう! 

以下は、Amazonレビューより

人はどこまで歩いて行けるのか

歌舞伎研究に新生面を開かれたと称えられる故・郡司正勝氏と両国の劇場シアターX(カイ)との深い交流から生まれた本。郡司氏は1998年に逝去。追悼の企画としてこの本の初版が同年に急遽出版されたものと思われる。本書はその増補改訂版。1997年にシアターカイで初演されポーランドへも遠征した郡司氏創作の戯曲『歩く』を収録。他にも貴重な手記や対話、日録など。『歩く』は歌舞伎における様々の歩行の技法を一堂に連ねつつ、一人の人というよりも、人というもの、人類というものの生涯を俯瞰して見せるかのような稀有なる作品。読み返すほどにその味わいは深遠さを増すであろう。貴重な一冊。

歩く 増補改訂版

それではまた、紹介いたします。







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