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太子堂鍼灸院 50周年を迎えて ─ 受付経験者にお話を伺いました

こんにちは。2022年3月1日に小林名誉会長が院長を務める、太子堂鍼灸院が開業から50年を迎えました。

小林先生から伺った当時の状況、私が勤務していたときのぼんやりした記憶、あと4名の太子堂鍼灸院の受付経験者の方にお話を伺い、太子堂鍼灸院の50年を駆け足で振り返って行こうと思います。

私は積聚会事務局スタッフの小幡智春と申します。初めに、私と小林先生、太子堂鍼灸院との関わりを紹介させていただきます。

小林先生との出会いは、私が関東鍼灸専門学校3年生のときの実技の担当が小林先生だったというものです。またその時の私の同級生が当時の太子堂鍼灸院の受付をされていた方と知り合いで、その方が退職するということで、紹介をいただいて太子堂鍼灸院に受け付けとして入ることになりました。(1995-1998年、その後2005-2013年に治療スタッフとして勤務)

年表

簡単な太子堂鍼灸院年表です。

開業

1972年3月1日に東京都世田谷区太子堂5丁目に開業。住所地に円泉寺というお寺があり、そこにあった聖徳太子を祀る太子廟が、治療院名の由来となりました。

小林先生と小林先生が卒業した東洋鍼灸専門学校時代の同級生の方と共同での開業。2人の自宅からのほぼ中間地点としてその場所を選び、それぞれ曜日を分けて臨床を行っていたとのことです。

借りた物件は、8畳と6畳の畳部屋2間の日本家屋。6畳には炬燵があり、そこを待合室として使用。8畳間には絨毯を敷き、ベッド2台を入れて治療室としたそうです。

受け付けは置かず、治療室の隅に事務机を1つ置き、待合室の炬燵のテーブルに予約ノートを置いて、患者が各自で次回の診療の予約時間を決めて名前を書き入れるシステム。そして電話受付は昼休みと午後7時以降とし、治療中は電話に出なかったとのこと。待合室と治療室の仕切りは襖で、治療室と待合室の様子は筒抜けだったとそうです。

約11年、ここで臨床が行われました。

世田谷区代沢に移転

1983年に世田谷区代沢3丁目に移転。2013年の10月まで30年間、この場所での臨床が行われました。

私が勤務したのもこの場所でした。どんなところだったかを紹介します。

南面は歩道とバス通り、東側は細い道路に面した、鉄筋3階建てのビルで、1階は店舗(2軒)、2階・3階はアパートになっていました。そこの1階に太子堂鍼灸院が入り、隣は私が勤務していたときは、カメラ屋さんが入っていました。(その前はコーヒー屋さんが入っていたそうです)

元の構造は、南側のスペースは歩道と同じ高さで、シャッターを開けて出入りでき、北側は畳の部屋で道路面より高くなっていたのを、南側の床面を、畳の部屋と同じ高さにして、南面のシャッター側から出入り出来ないようにし、北東側を出入り口にしました。(下図参照)

最初は受付スペースはなかったのですが、数年ほどして、受付が必要となり、全面フローリングに改装しました。

太子堂鍼灸院(代沢)図面

上の階には、ほとんど行くことはありませんでしたが、一度、診療開始直前に、天井から水が漏ってきたことがあり、上の階の住人に水が漏っていることを告げに、階を上がったことがありました。

問題であろう部屋のブザーを鳴らしても応答がなかったので、これは高齢の方が倒れているのではないかと思い、その部屋の台所付近の小さい窓から、なんとか部屋に侵入しました。すると居留守を使っていた女性が呆然と立ちすくんでいました。その女性もさぞ怖かったことでしょう。

水漏れの原因はベランダの排水管の流れが悪くて、洗濯機の排水が詰まり、下の階に水が回ったとのことでした。大家さんはすぐそばに住んでいたので、今思えば、もう少し良い対処法があったような気がします。

当時から建物が古かったということと、私が若かったというエピソードでした。

研修所併設

2005年、隣のカメラ屋さんが閉店したのを機に、カメラ屋さん店舗部分も借り、太子堂鍼灸院との境界の壁の一部を抜いて、研修施設を併設する治療院として生まれ変わりました。治療院全体の改装も行ったので、近所のクリーニング屋さん跡地を借りて、改装期間の1ヶ月弱、そこで診療を行いました。

東京都千代田区御茶ノ水にあった、お茶の水鍼灸センターの積聚会事務局機能も太子堂鍼灸院に移入することとなり、当時はかなり、どたばたとした時期でした。

研修施設を併設したときの図面

1日のメンバーは小林先生、受付スタッフ1~2名、治療スタッフ1~2名の計3~5名。治療スタッフは曜日ごとに変わるので、総勢10数名の大所帯となりました。

研修所での講義の様子

狛江市に移転

そんな時期もあっという間に過ぎ、耐震の問題によるビルの取り壊しなど、様々な理由で東京都狛江市、小林先生の自宅隣の敷地に治療院を移転することとなり、現在に至ります。


太子堂鍼灸院の受付経験者に話を伺いました

つづいて、太子堂鍼灸院で受付をされたことがある4名の方にお話を伺いました。


藤田享子さん

はじめに、初代受付の藤田享子さんです。現在は東京都江東区木場に「木の花はりきゅう治療室」をかまえています。

太子堂鍼灸院、50周年おめでとうございます。
ご紹介頂きました初代受付の藤田享子(タカコ)です。

当時、先生の元で勉強したいと希望する方が多い中、関東鍼灸専門学校卒ではない私が受付に入ったことで『あの藤田さんね』とよく言われたものでした(苦笑)

■ 小林先生との出会い

1988年3月に花田学園を卒業し、その卒後教育の一貫で行われた12名の著名な先生方の講座の一つに積聚治療があり、受講したのがキッカケとなりました。

卒業後、数ヶ月で無謀?にも同級生同志で開業した私は治療をしていく中で色々な疑問が出てきましたが、その疑問を小林先生の講義が全て解決して下さり、これだ!と思い、その時が小林先生との出会いでした。

■ 出会いから受付まで

これだ!と思って、積聚会の基礎コースを申し込み、この時から積聚会とのご縁が始まったわけですが、講義の内容に大きなカルチャーショックを受けたことを覚えています。

その後、幸運?にも、体調を少々崩したことがきっかけで小林先生に治療をお願いすると快諾してくださり、そこから先生との本格的な?ご縁が始まりました。

治療に約一年通い、体調も整ったタイミングで治療院のリフォームの計画を聞き、受付のお話を頂きました。

あとから聞いた話ですが、受付を決めるに当たり、易を立てたそうです。すると、受付には男性が良いと出たそうで、困った先生は私の性格を占ったら男性と出たそうで…確かに!
そして1990年11月、初代受付のスタートです。

■ 太子堂での思い出

リフォームしたことで、先生からは入ってくる患者さんが見えず、様子が気になる患者さんについては、カルテの下にメモを忍ばせたりしました。
そして治療中は、目と口は待合室に居る患者さんに向け、耳と意識は治療室へ。微かに聞こえる音で治療の様子を把握し、後でカルテで穴を確認、多くの学びを頂きました。

先生の治療日は、学校の授業もあることから、火、木、金の終日と土曜の午後。一時期、空いている水曜に場所をお借りして治療にあたったこともありましたが、知識が増えるばかりでも、技術が伴わず…これではいけないと、治療に専念するために約3年お世話になった受付を卒業しました。

■ 小林先生へ一言

必然的な流れのご縁で、先生に出会った気がします。ご教授頂いた様々なことはこれからも治療だけではなく、人生にも彩りをつけてくれると思います。先生を追い越すことは出来ませんが、一歩でも近づけるよう地道にコツコツこれからも学んでいきたいた思います。ありがとうございました。


横山季之さん

続いて研修所時代に私と同じ曜日に勤務し、現在は積聚会事務局長を務める横山季之さんです。

■ 太子堂鍼灸院勤務に至った経緯

私が学生として通っていた関東鍼灸専門学校(2000.4-2003.3)では、1年次から3年次まで積聚治療をしっかり習うことのできる環境が整っており、積聚会に所属している尊敬する教員の先生方がたくさんいらっしゃりました。もちろん小林詔司先生から積聚治療を授業で教えていただいた一人であります。

そこには、初めて耳にする東洋的な思想や発想という学問がとても面白くて仕方がなかったのを覚えています。

今から考えてみれば,その学問が面白くて仕方がなく、私が目指すものはこれだと思い、卒業後はこの積聚治療でやっていこうという意思をかためた頃、受付のお話をお聞きしました。

■ 勤務時期

2002年12月初旬、国家試験と学校卒業を目前の頃、学校にて小林詔司先生より太子堂鍼灸院の受付の方が退職されるということをお聞きし、実際の先生の臨床現場を見てみたい一心で、同期の友人と2人で曜日交互に週2回受付として、他の日には独自で往診をしながら勤務することとしました。
(2003年4月―2005年3月…受付勤務(週2回)、その後2005年4月―2013年10月…治療スタッフ兼受付勤務(週1回))

■ 思い出

受付勤務の時のいちばん記憶に残っているのが、お昼の休憩時間です。

小さな折り畳みの丸テーブル(現太子堂鍼灸院の問診テーブル)を小林先生と2人で囲み、それぞれの持参したお弁当を食べながら、その日の治療の話や面白エピソードなどじっくりお話ができたことは、今では忘れられないとても楽しかった思い出です。

横山さんが小林先生とお弁当を食べたテーブル。おそらく30年以上前から存在していて、今も現役ですが、もう少しで役目を終えて引退するそうです。お疲れ様でした。(小幡)

■ 小林先生に一言

先生が50年間、私には想像できないほどの幅広い症状や病気の患者さんに向かい、また今現在まで休まず治療院を継続されていることを直に目にすることができていることは、私にとって今後の鍼灸師人生の大きな糧となります。

これからも日々学ばせていただきたいと思っていますので、どうぞ宜しくお願い致します。


横井ひかりさん

続いては横井ひかりさんです。研修所が始まってから(2005年から)の、初代の受付となります。現在は神奈川県横浜市保土ケ谷区の「権太坂ほこたて治療院」に勤務、往診治療を行っています。

以下、思い出がいっぱいの内容です。

■ 入職に至った経緯

専門学生3学年(21歳)の12月頃、恩師の高橋大希先生から紹介をいただき、面接を経て入職が決まりました。

面接は太子堂鍼灸院のそばにある喫茶店でした。小林先生が履歴書を見た途端に「(想定外の困った様子で)随分若いねぇー…(結構な間)」と。この間に耐えられなくなった私は「あ、はい…(すみません)」と思わず返事をしてしまいました。その後の会話は全く覚えていません。

その後、小林先生がカレーを注文。小林先生の醸し出す雰囲気に圧倒されていた私は、食べる姿を見ているだけで喉から心臓が飛び出そうでした。今考えるとカレーを食べる位のラフな面接空間でしたし、全てが面白く思えます。

2005年から2008年までは受付として、その後2019年まで治療スタッフとして勤務しました。

■ 思い出1 入職してすぐ

「本当は社会経験のある30歳前後の女性を希望していたんだよね。そうしたら随分若い女性が来たじゃない、驚くよねぇー・・」と小林先生が笑って言っていました。私は笑えませんでしたが…。そして「横井さんは社会経験が無くて知らないことも多いからねぇ・・(間あり)・・私に何でも聞きなさい」と。おお、なんと恵まれた環境でしょうか。
こんな感じで私の社会人生活が始まり、太子堂に14年間お世話になることになりました。

当初は、知らないことや出来ないことが多すぎて一日一日が必死でした。受付事務としての知識は勿論、柔軟で機転の利く様な人間になりたかったですし、先輩方が太子堂や積聚会に貢献している姿を見て、早くスタッフの一員らしくなりたいと強く思いながら仕事をしていました。私なりに真面目だったんだと思います(笑)

■ 思い出2 受付

入職して間もなく、小林先生から「患者さんに色々聞かれると思うから、その時には私の代わりに答えると思って接しなさい」と、さらっと強烈な言葉を受け、受付には暫く立ちたくなかった記憶があります。

有難いことに患者さんに恵まれていた私は、多くの会話や相談を受け、多くを学びました。患者さんの色々な面や、施術前後の変化を受付でも沢山見ることができました。それは小林先生を初め、太子堂で施術する先生方が多くの患者さんを診ていたお陰です。

■ 思い出3 治療助手

小林先生の治療時間15分と他の先生方の治療時間30分、これらに合わせて主に受付事務・ベッドの準備・片付けをしていました。当時太子堂は積聚会事務局でもあったので、その事務仕事もありました。また初診の予診は受付の担当で、制限時間約10分で予診を取るという、中々ハードなルールでした。そうなると結構忙しく、電話応対1つで流れが狂って、てんやわんやになる事はいつもの事でした。

そんな中でも、小林先生の刺絡の時には助手をさせてもらっていました。本来助手など不要ですが、受付スタッフの学びの為に先生が場を作ってくださっていました。

刺絡の助手の仕事は、刺絡吸角後、先生の手に吸角や綿花を渡す・貰うを繰り返す作業です。当時の鉄則は患者さんに居ることを悟られない事と、使用した道具を残さず持って出ていく事でした。小林先生のリズムが狂わないように溶け込んで助手をしたかったので、休憩時間に毎回フィードバックを頂いていました。

私:「先生、今回渡す角度は大丈夫でしたか?」
小林先生:「悪くなかったね」
私:「タイミングが少しずれてしまってすみませんでした」
小林先生:「0.5秒遅かったねぇ(ニヤリ)」
私:「え。0.5秒も?!直します!ありがとうございます!(やっぱり0.2-3秒くらい遅かったか)」

という様な感じです。面倒臭がらずに毎回優しく答えてくださいました。

■ 思い出4 事務

入職して2年目に太子堂は株式会社になり、間もなく私は経理担当になりました。

新しい事業なので、教えてくれる人も居らず、どうしていいかわからず、私にとって最大の危機でした。経理の本を購入し、担当税理士さんに助けてもらいながら必死に向き合いました。仕事量も多く知識も浅いため、太子堂にはよく残っていました。積聚会も会員数が増え、海外交流が当たり前のようになったりと処理する事が年々と増えていきました。

担当職もまともに出来ないのが悔しかった時期がここから2~3年位続きます。しかし弱音を吐いている暇もありませんでした。

太子堂は普段にぎわっている反面、診療終了後に一人になると、かなり静かに感じました。やや怖かったものの、仕事は捗るのでこの時間は結構好きでした。研修所の大きなテーブル(ベッドを並べたもの)に沢山の書類を広げてブツブツ大きな独り言を言って作業をしました。この時間が自分を成長させる大切な時間だった気がします。そしてこんなにも居残っていたのは私だけだったに違いない・・・お世話になりました。ありがとう、太子堂!

そして太子堂が狛江に移転すると、書類はほとんどが屋根裏へ。夏は蒸し暑く、冬は寒い。何か問題が発覚すると、暫く屋根裏に籠りブツブツ独り言を言いながら・・・。そんなわけで毎年の大掃除も屋根裏担当で、こちらも私の居場所でした。お世話になりました、ありがとう太子堂!!

■ 思い出5 お昼

お昼の思い出も沢山あります。基本的にお弁当ですが、スタッフ全員で蕎麦屋に注文したり、賑やかに過ごしていました。

時々、小林先生の奥さまが手作りの差し入れを持ってきてくださいました。奥様の料理はとても美味しかったです。小林先生はいつも健康的なお弁当でした。差し入れの一つで、きびもちとじゃが芋の炒め煮がとても美味しかったです。奥様から「簡単よ」と教えてもらい、自分でも作るようになりました。

■ 思い出6 休憩時間

休憩時間中に、小林先生に中国語や英語の発音と気圧の事を教わった事が印象的です。

中国語は声調、英語はアクセントと母音・子音について各々30分位は声を出して教えて頂きました。こんなに分かりやすく教えてくれる熱心な上司は居るのでしょうか?私の変な発音や小林先生のややスパルタ的な教えに、周りの先輩方は笑いながら聞いてくれていたのを覚えています。

気圧については、1気圧がなぜ1013hPaと判ったのかを、紙にフラスコと水銀を書いて説明してもらったのを覚えています。こんなに分かりやすく、休憩時間に、ここまで細かく説明する熱心な上司は居るのでしょうか?忘れられない特別な思い出です。

■ 大好きな小林先生へ

この度は太子堂鍼灸院50周年おめでとうございます。
東洋思想を学び、それを人に伝え、理解してもらうことは、私にとって永遠の課題です。

最近は、そもそも一生向き合える課題があるのは幸せなんじゃなかろうか、と思うようになりました。社会経験無く入職した私にとって、太子堂での経験は力強い大きな土台です。

太子堂の空間や先生の背中から多くを学び、成長させてもらいました。また鍼灸師としての小林先生だけでなく、小林取締役と一緒に働けたことの影響は何よりも大きかったです。物事の考え方や向き合い方を多く教わり、何を求めて何を意図しているかを読むことも訓練されました。そのお陰で、今も大きく迷うことなく仕事ができています。そして今でも太子堂に伺えることや先生の話や鍼灸に触れることができることは幸せです。甘えですが、ずっと太子堂の存在があってほしいと思っています。

今後もどうぞよろしくお願いいたします。


川浦渉太さん

最後に、現在受付をされている長野県出身の川浦渉太さんです。近年いろいろと大変な中、太子堂鍼灸院を支えてくれています。

■ 太子堂鍼灸院に勤務することとなった経緯

専門学生時代の恩師小林郁代先生の紹介で太子堂の受付が空くかもしれないという事を聞き、卒業後1年間待ってから受付になりました。

■ 太子堂に務めている期間

2020年3月から今現在務めさせていただいてます。

■ 太子堂での思い出

小林先生に知熱灸をさせて頂く機会があり、その際に接触鍼と脈調整もやってみようかと仰っていただき緊張しながらやった事がとても記憶に残っています。たまにこういったことがあるので、日々ドキドキしながら過ごしています。

■ 小林先生に一言

小林先生太子堂鍼灸院50周年、おめでとうございます。50年間のほんの数年ですが受付として過ごせた事を誇りに思います。太子堂で得た経験を糧に鍼灸師として成長していきます。

今年、梅雨時期の太子堂鍼灸院
治療院の中の様子
川浦さん(左)と小林先生(右) 2022年7月11日撮影

最後に

小林先生には臨床だけではなく、後進の育成、積聚会の会務など大変ご苦労をおかけしてきました。これからも元気にご活躍していただけるとうれしく思います。