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#02 気について(2) / 臨床の周辺

六銭堂鍼灸院 藤原典往

『積聚会通信』No.23 2001年3月号 掲載

東洋医学は「気の医学」といわれるが、その原典である『黄帝内経』ではどの様に「気」を考えていたのか気になるところではないだろうか。しかし『黄帝内経』に書かれている「気」は、語の用いられ方も一定しておらず解釈しづらい。あるものは気候を指していたり、疾病を指していたり統一性がなくそれが何なのか理解するのは困難である。しかし『霊枢』決気篇「黄帝が話された。余は人に精、気、津、液、血、脈が有ると聞く。余は一気のみと思っている」や、『淮南子』天文訓の宇宙生成の様子などにも書かれているように、「全ては気によって成り立っている」という発想がなかった訳ではない。「一気のみ」の根底にどんな考え方があったのか思想的な面から考えてみたい。

漢代に「黄老の術」といわれ流行した集団がいる。「黄帝」と「老子」を信奉するグループであるが、別々のグループであったのか同一のグループであったのか良く分からない。何れにしてもひとまとめに扱われている所を考えると思想的に共通するモノがあったのだろう。

『黄帝内経』も名称に「黄帝」と付けられていることから「黄老思想」の影響があったと考えられる。「黄帝」と付く書は他に『黄帝四経』なるものがあったとされるが、馬王堆漢墓からそれと推定される四書が見つかっている。

『老子』は「無為自然」を説き、その根拠は絶対普遍の「道」である。人は常に相対的なモノの見方をするがそれは普遍的な価値観ではない。相対的な考えを越えたところに本当の世界があると考える。「道」は視ようとしても見えないし、聴こうとしても聞こえない。混沌としていて掴み所なく名付けようもないが、あえて付けるのなら「道」と呼ぶしかない。といっている。

「無名は万物の始まりで、有名は万物の母である」。人が事物に対して名前を付けることは、事物を認識しやすいように分別することにあるが、それは相対的発想である。しかし事物は本来、名前がなくただ存在するだけである。人が認識し概念化することで存在している。

ある人が花を見て美しいと感じたとする。そう認識するにはまずその花と他の花や雑草と区別しなければならない。それから美しいのか、あるいは醜いのかを判断することとなるが、しかし人に「花」「雑草」「美しい」「醜い」といった概念がなければその様には感じられない。もしそれぞれの概念がなければそれはないのと同じであり、存在として認識されたとしても全体の中で他のものと区別できずに、「一」つのものとして把握するしかないし、「花」も自然の中では名付けようのない存在なのである。

これらの発想は人と自然の関わりやその存在理由を古代中国の人が思索したものであり、事物を観察する側の人と、その対象となる事物の関係が意識されていたということである。人の目に映る事物や現象、日常的に経験するさまざまな出来事は、人の理解を越えたモノにより構成されていて個々の区別をすることができない。その対象となるものを全て「一」つのモノと見る発想があった。この様な考え方が『黄帝内経』が成立した時代の「気」の源流となっていたのではないだろうか。