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#01 気について(1) / 臨床の周辺

六銭堂鍼灸院 藤原典往

積聚会通信No.22 2001年1月号掲載

「気」は先天の気、真気、経気など東洋医学では頻繁に出てくる言葉である。ある学会で臨床家の先生方に気とはどの様なモノかと言うアンケートがとられたが、特に目立った意見はなかった。10 年ぐらい前には、気で人を跳ばすということが話題となった。これが火付け役となり、「気」という言葉が世間に広まった。

一般的に「気」のイメージというとハンドパワーの様なものや、超能力的なものを頭に描きがちである。気という言葉には神秘的な魅力があるが、この神秘的という捉え方が気の概念の理解を妨げているのではないだろうか。目に見えない「気」の力によって病気を治すのは神秘的であるが、それは気というものの考え方のごく一部でしかない。目の前に普通にあるモノ、普通に感じるモノも同じ様に気であるからだ。

気功師が「気」で病気を治すというのは本来心身の鍛練のためや、悟りを開くための修業過程の副産物であって、それ自体が目的ではなかった。病気を治すのには神秘性を強調するようなパフォーマンスは必要ないのだ。

気とは便利な言葉である。超常的なエネルギーやパワーを何でもかんでも気という言葉で結び付けてしまっても問題はない。日本では「気」にはっきりと定義付けされた概念が無く、イメージが先行して何かあやふやなままで定着し、吸収されているからである。

気の概念は事物を一元的に捉えた唯物観である。全ての事物は気によって構成され、その凝集密度の程度によって個別化される。中国思想の中に、全ては「一」であって、万物はそこから分化して生じるという考え方がある。「一」とは現実世界を人の分別を加えず斉しく同じ様に見ることを指し、それが真の世界であると考える。人の認識を介さない現実世界はただ混沌とした世界であり、そんな世界を少しの隙間もなく埋め尽くし、集まったり散ったりすることで全ての事物を構成しているのが気である。

身の周りの出来事や現象を人間は知識によって理解しているが、それが現実の本当の姿であるとは限らない。自分の見ている世界を揺るぎない現実であると信じているだけなのだ。人の認識はそれほど正確ではなく、現実世界は人の概念を越えた存在である。現代科学をもってしても電波望遠鏡で見える所までしか見えず、芸術をもってしても想像力を超えるものは頭の中にはない。それを説明する時に人の解釈した言葉で世界を表現しているだけである。現実の
世界は人の理解よりも広大で深遠で、人が理解できないものがあっても当然で不思議ではない。それを把握するには目の前の現
象を作為的に考えないことが必要なのだ。

全ての事物は気の概念に包括され、神の存在からコンピュータまで同じ次元で考えることができる。「気」を神秘的なモノと捉えると逆に気の概念が固定化した考えになってしまい、あるがままの姿を捉えることができないのではないだろうか。