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正しきストーナー映画としての『ビーチ・バム』(ハーモニー・コリン監督)

二種類の反復がある。

一つは意味のあるもの。もう一つは、意味のないもの。

例えば、反復とはブレイクビーツである。反復とは、プリーツスカートの襞(ひだ)である。反復とは、フリークエンシーn回の広告である。反復とは、似たような色恋沙汰を次々に描くホン・サンスの映画である。反復とは、軽いショットをばんばん撮ってその場で捨てていくような思い切りの良さに溢れた近年のイーストウッド映画である。

フリークエンシーn回の広告は、一回一回に目的をもっている。認知させたい、理解させたい、購入に向かわせたい。つまり、意味のある反復である。一方で、近年のイーストウッドの淡々としたショットの集積には意味がない。ほとんど透明なそれらが積み上がることで、何か心を動かされるものとなる。何も心を動かされないこともある。あまりにぶっきらぼうすぎて違和感を覚えることもある。

前回エントリ記事「メタリカ St.Angerを再考する」を書いて以来妙にストーナーづいているのだけれど、性懲りもなくKYUSSを聴きながら思うのは、今の時勢にこそKYUSSのような音楽の反社会的態度はぴったりはまるという確信である。反社会的と言っても、息苦しい日常から逃避的にトリップするというような単純な話をしたいのではない。ここで指しているのは、一見何の意味もないようなリフが反復することで次第に“意味のあるようなもの“に聴こえてくる魔法に魅力を感じる、ということ。つまりは「手段」とか「目的」とかそういうものから離れた、意味や狙いがスコーンと抜けてただ延々とループし続ける無駄の集積が、合理性を追求し窒息するような世の中の空気――そのくせこの合理性とやらは成果を生まないのがこれまた厄介なのだが――の中で最終的に意味を成していくミラクルである。意味や目的から離れループさせていくことで、気づいたら価値が生まれる――誰しもそういった経験はないだろうか。


飛躍するが、例えば、愛とはそういうものではないか。親は子を世話するけれど、その一つひとつにいちいち意味を見出したりはしない。半ば無意識で反射神経としての世話は、しかし長い年月積み重なることである日“愛”と呼ばれることになり、感謝される。親孝行という“意味のあるもの”を新たに生んだりもする。日常の愛情ゆえの行為には、ほとんど意味はない。この、意味のなさが積み重なることでいつか気がつけば力を帯びるという魔法。KYUSSのリフは、ほとんどそういった本能のような、反射神経のような態度で繰り返されている。そして、一つひとつの楽器の音が抜群に良い。重くて乾いた、キレのある音の集合体が何の意味も持たずに同フレーズを延々と繰り返すことで生まれるパワー。

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4月30日公開のハーモニー・コリン監督作『ビーチ・バム』は、以上のような意味で、正しきストーナー映画であると言ってよいだろう。まずは、“ストーナーそれ自身を描いている”という内容面での重なりが指摘される。カラッと晴れたフロリダの地で、主人公はいつだって酒を飲み、たゆたう煙でチルアウトしている。(実際、ハーモニー・コリンは本作を「チーチ&チョンのビーチ版だ」と述べている。)しかしそれ以上に、ストーナーロックのリフを彷彿とさせるような意味のないカットの集積――この作品は、成長せず学習もしない主人公が延々と場所や取り巻きを変えて同じことを繰り返している様子をとらえただけの、中身のない空洞のようなカットを積み重ねただけの代物である――がストーナー映画としての魅力を形成している。本当に、何の物語も成長もない。あるのは、積み重なるカットのみだ。

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注目すべきは、主人公が妻と踊り遊ぶランデブーの場面である。ここでの「間違いなく今から何かが起こる」という浮遊感は、重要なシーンであることをことさらに強調し、異質な感触を残す。(これはKYUSSの曲でいうと、ファジーに入りバッドトリップを促す、ギターソロの役割にあたるのかもしれない。)単なる意味のないカットの集積体の中で、この唯一力の入ったドラッギーな描写をきちんと入れてくるあたりで、正しきストーナー映画であることと同時にハーモニー・コリンが映画を信じているのだという確信を得る。甘美な騒ぎの連続を見ていると徐々にフェリーニ『甘い生活』の記憶が立ち上がってくるのだが、そう思って観ていると案の定オマージュとなる演出も入り、やはりハーモニー・コリンの良心が垣間見えて心を動かされる。

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批評家の浅田彰氏は本作『ビーチ・バム』に向けて次のように書いている。

自己規制(自粛)と相互監視を逃れ、しかも「自由という名の野蛮」を振りかざして「死に至る悦楽」へと暴走することがない。軽やかに快楽の波に乗りながら、他者とともにあくまでも明るく生き続ける。これはそんな真の自由人の姿を描く美しい映画――パンデミックと自粛で窒息しそうな私たちの社会に吹き込む一陣の涼風だ。(公式サイトより

そう、とかくこういった作品で描かれがちな“死に向かう衝動”ではない、あくまで悠々たる軽やかさ――。鬱とエモに覆いつくされた10年代後半を経て、この先の時代が、意味を捨てた軽やかな快楽に少しでも浸れるような世の中になることを願ってしまう。


<追記>
今振り返ると、ハーモニー・コリンの前作『スプリング・ブレイカーズ』のカラフルなネオンが光るトーンは、その後到来したInstagram時代の色彩感を予見していたかもしれない。前作同様に、今作でも美術をエリオット・ホステッターが担当している。コーエン兄弟『トゥルー・グリッド』のような乾いた世界観からニコラス・ウィンディング・レフン『ネオン・デーモン』のようなアシッドでサイバーな空間までを手掛ける彼の手腕が、『ビーチ・バム』には良いバランスで出ているだろう。

常にユースカルチャーと歩幅を合わせているハーモニー・コリンは、色彩のタッチに対して目をみはる感性を発揮してきた。以下は、近年の映画以外での彼のワーク。

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『DAZED』でのハーモニー・コリンによるBillie Eilishシューティング。目出し帽は彼の作品で重要なモチーフとしてあるが、ここでもヘルメットが使われ、蛍光色を背後から支える。
出典:https://www.dazeddigital.com/music/article/48631/1/billie-eilish-interview-dazed-springsummer2020-harmony-korine
Rihanna「Needed Me」のMV。色彩はもちろん、ロケーションやモチーフにおいてもハーモニー・コリン作品としか言いようのない出来。
Gucci Mane、Sienna Miller、Iggy Popら豪華スターが集結したGUCCIのキャンペーン。アンティークな質感はどれくらいアレッサンドロ・ミケーレのディレクションが入っているのか分からないが、ハーモニー・コリンにしては珍しく野蛮さと品格が両立している。
POPYEに掲載されたハーモニー・コリンのインタビューも面白い。「俺はこの映画を観る人に、ラリっているときや、酔っ払っているときみたいな、リリカルな経験を味わってほしいと思っていたんだ。だから、同じシーンをいくつかの違うロケーションで撮って、それを音楽のように編集して、液体のようなナタティブを目指したんだ。」

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最後にストーナー繋がりでもう一つ。MONSTER MAGNETのカヴァーアルバム『A Better Dystopia』が5月にリリースされることに!「パンデミックでツアーができないから、60年代~70年代のサイケ、ガレージ・パンクの香りが残るヘヴィなロックのカバー・アルバムを作ることにした」とのことで、Pentagram や The Pretty Things 、Jerusalem等のカヴァー曲が入るそう。ストーナー作品は残念ながらストーナージャンル外では全く話題にならないのだが、合法/違法問わずハイでチルなアイテムというものが社会情勢/文化的背景としてますます無視できなくなっている今(KOHHの新曲「CBD feat. MONY HORSE」も記憶に新しい)今後様々なところでリファレンスとして使われはじめるだろう。

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