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櫻井敦司さんの訃報によせて

不思議なことに、私がBUCK-TICKを聴くとき、必ずと言っていいほどその音は櫻井敦司の映像とともに再生されていた。聴覚と脳と視覚が瞬間的につながることで櫻井敦司のあのたたずまい、身振り、所作、表情、全てが一瞬にして想起され、音楽が「イメージの櫻井敦司から」鳴らされた。そんなのよくある話だよ、と思うかもしれない。確かに、音楽を聴いていて何かしら景色が想起されるというのはよくあることだ。ただ、私におけるBUCK-TICKを聴くという体験は「音楽を聴くことで景色が想起される」という類いのものではなく、「音楽それ自体がイメージとしての櫻井敦司から鳴らされ、その映像とともに耳に入ってくる」ものだった。

人は通常、様々な音楽の聴き方をしている。単なるBGMとして。リズムに乗るために。もしくは主旋律を追うように聴く。あるいは楽器の音に注意深く耳を傾ける。高低差に気を向ける。それとも、音圧や音質に神経をとがらせて聴く。様々な聴き方がある中で、私はBUCK-TICKの音楽を、櫻井敦司がたった今両手をマイクの前で広げ、指先をピンと伸ばし、慈愛に満ちた表情で苦しそうに歌う、その映像イメージとともに聴いていた。なぜか鮮明に描かれるその姿は、ライブで観たものであり、DVDやYouTubeで観たものであり、それらが断片的に組み合わさってつくられた偶像だ。なぜなのだろう。何度も何度も映像を観たからかもしれない。パフォーマンスの身体表現や表情が強く印象に残っているからかもしれない。けれども、そんなアーティストは他にもたくさんいる。その中でも、なぜ櫻井敦司だけが、いつも音楽を流す度にふっと偶像として立ち上がるのか。それだけ彼のイメージが記憶と密接に繋がる鮮やかなものだったのか。

櫻井敦司は、常に容姿について言及されてきた。確かに、彼のビジュアルは強烈だ。しかし、それは単に容姿の良し/悪しという平たい話では全くない。ビジュアルとは私たちが考える以上に混淆で複雑かつ解明し難いもので、BUCK-TICKの音楽を聴く度、私はその奥深く不可思議な側面について思いを馳せている。音楽におけるビジュアルとの連関、そこで浮遊し、たゆたうイメージの再生可能性について、私はこれからも櫻井敦司に触れながら考え続けることだろう。だから、何度も、何度も聴き続ける。これからも、櫻井敦司の「姿」を。「イメージを聴く」という、その謎について問いながら。

愛しています。どうか安らかに。

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