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カンパニーXY withラシッド・ウランダン「Mobius/メビウス」を観て考えたhyperpopのこと

世田谷パブリックシアターで観たカンパニーXY with ラシッド・ウランダン『Möbius/メビウス』にいたく感動したため、筆をとっている。

フランス拠点に活動する人気の現代サーカス集団「カンパニーXY」とコンテンポラリーダンスの振付家ラシッド・ウランダンのコラボレーションということで、老若男女が集まり会場は盛況。東京から始まり名古屋、京都へと続く日本公演ツアーである。冒頭から、息をするのもはばかられるような緊張感あふれる無音の中で演者が一人、二人、三人……と現れる。皆が固くこわばった表情で、これは現代において社会から孤立しがちな私たちを表現したものか。目の前にずらりと並ぶ、恐怖の個人主義の群れとも言うべき重々しさに、早速押しつぶされそうになる。

そこからは、群れが<チーム>になっていく様子が様々な手法で表現される。時には人が人を追いかけまわし、時には二人が抱擁し合い、時には数人でフォーメーションを組み人を持ち上げ、時には倒れる人体を受け止め――驚くべきことに、それら動き一つひとつの積み重ねが、軟体動物を彷彿とさせるような感触を届けてくるのだ。オフバランスでの動きはウィリアム・フォーサイス的ではあるものの、やはりサーカス・カンパニーだけあってもっとラディカルな運動でなされている。軟体というよりも、流動体に近い。グラッと倒れそうになる一瞬のフラついた動きは<立つ>―<倒れる>という境界線を無効化し、液体のようにボーダーレスな在り方を突きつけてくる。デコンストラクションというよりは、もっとメルトしながら様々な項からはみ出していくような感覚に近い。もちろんそれは、過度に跳躍力があったり、バランス感覚に秀でていたり、チームワークが抜群だったり、というスキルがあってこそ実現できるもの。アクロバティックなサーカス集団として人間のフィジカルを超えた次元でのパフォーマンスが突き抜けており、それを抜群のチームワークで実現するがゆえに可能なのだ。

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論を広げるため、直感に任せて飛躍したことを言いたい。私はこの演目を観て、近年音楽の領域で興っているhyperpopのシーンで聴かれる楽曲の数々を思い出してしまった。過度にボリュームを上げたエフェクトやピッチ、音割れ、加工した声によって、それら楽曲は既存のポップミュージックの文脈やジャンル性といった対立をまさに<メルト>しながらくぐりぬけていく。hyperpopのデザインが多用する、流動体のようなフォントやモチーフ。それらは、オフバランス×ボーダーレスな動きを縦横無尽に重ねることで目の前に次々と迫りくる問いを突破する、カンパニーXYのパフォーマンスそのもののように思えたのだ。

そして最大の発見は、カンパニーXYの面々がお互いを信頼し安心しきっているからこそあの表現を成立させている、という点。驚異的なチームワークを支えているのは、信頼である。

hyperpopと呼ばれるミュージシャンたちが、あんなにも過剰に鳴らした奇妙なサウンドを世に出すことができるのはなぜなのだろう?私は、ずっとそれが疑問だった。露悪趣味ともとられかねない。せっかくのポップな旋律をバキバキに割れさせるなんて。そもそも、秩序化された世の中や自分の音楽的技術・知識を無効化し攪乱させてしまうことへの恐れはないのだろうか。しかし、『Möbius/メビウス』を観て私は思った。恐らく、hyperpopという名称が生まれる前にそういった音楽をやっていた人たち――あえてここでは名指さないが――は、誰かの何かを信頼していたのだと思う。それは、クィアコミュニティへの信頼かもしれない。自身の声を変えることができるということへの信頼かもしれない。Soundcloudの、ほんの数人しかいない小さな絆への信頼かもしれない。何にせよ、恐らくそれら信頼によって、魂と身体がようやく近づいたのだ。

​ここに偶然見つけた共時性は、特に裏もとっていないし検証もしていない。ただの勘に過ぎない。しかしとても重要なことのように思うから、ここに残しておきたい。

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