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笑えない喜劇――プルカレーテ×佐々木蔵之介『守銭奴 ザ・マネー・クレイジー』の素晴らしさ

池袋は、いつ行っても殺伐としている。

『リチャード三世』以来、五年ぶりとなるプルカレーテ×佐々木蔵之介のタッグ。11月23日から東京芸術劇場で公開されている『守銭奴 ザ・マネー・クレイジー』は、音楽や美術が渾然一体となったプルカレーテ組の作家性みなぎる演出がヴィヴィッドな表現で迫ってくる、素晴らしい舞台だった。

様々な対比関係が見られた。舞台を仕切っていた簡素なセットがひらひらと風に揺れ、その狭い空間を貧相な格好のドケチ主人公・アルパゴン(佐々木蔵之介)が歩き回る。けれども終盤に仕切りは取り払われ、広々とした空間に絢爛な衣装をまとった人物が集まる。ストイックに進み続ける舞台演出に対し、待っているのはカーニバルなカスタトロフィ。ここには、ミニマル/マキシマル、シンプル/デコラティブといった対照が描かれている。

対人関係においてもコントラストがくっきりと見える。アルパゴンはコミュニケーションが円滑に進まず、言葉の意味の取り違えや思い込みによって観客の笑いを誘う。つまりコンテクストへの対応力に格差が生じているわけで、演出においてはその齟齬によってアルパゴンが怒りや驚きを表す時間が引き延ばされ、観客にひやひやした緊張感を与える。

そういうわけで、本作は喜劇でありながらも随所にサスペンスを差し込む。ゆえに、ただ“面白い”という一方向に感情が動くわけではない。ドキドキもするし、悲しくもある。怒りも感じる。この多彩なエモーションを喚起させるのがモリエールの、そしてプルカレーテの、優れた手腕である。

そして、それら様々に渦巻いた感情が素晴らしく冴えた照明と衣装で輝いていたからこそ、本作は壮大なメタファーとしても機能する。400年前に書かれた物語を、現代社会と重ねて考えてしまった観客は多いだろう。一人の老人に寡占される資本、どんどん頓痴気な世界観へと支配されていく舞台。ある種の資本主義リアリズムの露悪性を描写しているとも言えるこの作品は、相も変わらず資本を抱きしめ続けるアルパゴンのおかしさが「笑えない」極致に達した時点で、私たちに恐怖感をつきつける。つまり、モリエールの『守銭奴』を、現代の私たちは「喜劇として」見つめることができない。それは目をそらしたくなるほどの卑しさであると同時に、今の社会においてある種の正しさとして肯定されている態度でもある。一人の老人=富を寡占する人物が起こす騒動に、多くの人間が強制的に巻き込まれる展開も、まさしく資本主義ゲームそのものではないか。

寒々とした荒地に煌びやかな衣装をいくつも並べた素っ頓狂な空間は、ある種のホラーであった。喜劇を、シュールな暴露性とともに祭り上げてみせたプルカレーテ。恐らく今の私たちは前かがみで、ひどく腰が曲がっていて、横暴なのだ――資本を大量に蓄えているがどこかみすぼらしい、佐々木蔵之介演じるアルパゴンのように。

「食べるために生きるのではなく、生きるためにこそ食べるのだ」
印象的だったこの台詞に抵抗するがごとく、私は贅沢をして帰った。
殺伐とした街に紙幣をばらまくことで尊厳を保ち、空腹を満たすことで喜劇としての『守銭奴』を自らの中に取り戻した。それは傍から見たら、資本主義ゲームに参加しているだけに見えるかもしれない。けれども、私はゲームに参加しながらゲームを棄権した。そう信じる。そう信じるしかなかった。


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