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「はからい」を捨てると「気づき」が残る

私の家は浄土真宗である。私は熱心な信者である。
しかし、取り立てて宗教的に特別な事をしているわけではない。

「日常生活そのものが仏道修行であるのだ」と、私は思う。
目の前にあることをひたすらに頑張ればいいのだ。

「他力本願」とはなんとなくネガティブな言葉で使われることが多い。
浄土教はあの世で極楽浄土に生まれることを願う教えだとされている。
しかし、人が極楽浄土に生まれるには4つのパターンがあるという。

一つ目は 生きているときにご浄土に生まれる。
二つ目は 死ぬ瞬間(臨終のとき)にご浄土に生まれる。
三つ目は 死んでから時を経てご浄土に生まれる。
四つ目は 夢の中でご浄土に生まれる。

つまり、人間は生きているうちにご浄土に生まれることが出来るのである。
私は、もうすでに極楽世界に生まれることが出来たと思っている。
「有漏の穢身は変わらねど心は浄土に遊ぶなり」の心境である。

極楽にうまれた「いのち」は阿弥陀如来のご恩に報謝するべく、
この世に戻って阿弥陀如来の衆生済度の手助けをするという。
私も阿弥陀様に心を救われたという自覚があり、
心は浄土に遊びながら、現世を生きている。

生きながら極楽浄土に生まれた私は仏恩報謝の道に励まねばならない。
大げさな言葉だが、自分自身のさかしらなはからいを捨てて
阿弥陀如来の願いに身を任すことであり、それだけでいいのだ。

「はからい」を捨てると「気づき」が残る。
その「気づき」は進むべき道を示してくれる。
般若心経を読誦するとあらゆる迷妄が吹き飛ばされる心地がする。
禅語にも「至道無難唯嫌揀択」とある。
仏道修行は何も難しいことではない。ただ選り好みをしないだけのことであるという意味である。

念仏者は阿弥陀如来におまかせするという他力の実践によって
気づきの道を歩むのである。
衆生済度の営みも「空」なるものであるので
結局は自らの気づきを深めていくことだけに専念すればよいのだ。

私がnoteで書きたいことは文化的な事柄である。
非政治の豊かな世界である。
心が俗世間を離れなければ見えてこない視点から
歴史・芸術・文化を語っていきたい。



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