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海鞘日記(2024.7.23)

しぐるるや点景となり消えて往く

万骨の上に花咲くディストピア

或る時は主役で在りし斑猫(みちおしえ)

孟春


原点は私の中にしかと在り貴方の時空私の時空

夏燕虚空切り取り切り口は一つの真理南無阿弥陀仏

交差する事は今後も無いでしょう平行線の貴方と私

くねくねでうねうねしてる吾が軌跡振り返るまい車酔いする

カリュウ

◎私の信心
私が好き勝手に仏教書、哲学書を読んでも惑わないのはひとえに阿弥陀如来とその本願への信心が决定しているからに他ならない。

専修念仏の道に反しているのかもしれないが、
私は極楽浄土に生まれた実感がある。
この身を受けてから、往相の回向に預かって久しい。
後は、還相の回向によりこの現世を生きる。

だからこそ、自ら学ぶことを欲しているのである。
向かってきたものを興味の赴くままに節操なく学ぶ。それが私の「仏道」である。

もし信心が揺らぐとすれば、阿弥陀様の本願が嘘偽りであるとわかった時であろうが、そんなことはありえない。いやあったとして私にとっても地獄は一定の住処である。

今の心がたゆたえども沈まざるのはひとえに阿弥陀如来の本願の力によるものである。仮に私が今生を終えて地獄に堕ちても、そんなことなら親鸞聖人、法然上人も地獄に落ちていよう。親鸞聖人や法然上人と共に地獄にあるならば本望である。

阿弥陀様の本願が全き真実であるならば
お釈迦様の説かれたことは真実で有り、
お釈迦様の説かれたことが真実であるならば、
善導大師の解釈も真実である。
善導大師の解釈が真実なら、
それに気付いた法然上人の教えも真実であり、
法然上人の教えが真実ならば、親鸞聖人のおっしゃることも真実である。
親鸞聖人の仰ることが真実ならば、
唯円房が残された歎異抄も真実である。
歎異抄が真実ならばそれを読んだ私の見解も
全くの嘘というわけではないだろう。

こういうわけで、私は今生において極楽浄土に生まれて久しいと思うのである。

今の私は還相回向の生を生きている。そう確信する。

超世の悲願聞きしより
我らは生死の凡夫かわ
有漏の穢身は変わらねど
心は浄土にあそぶなり
(帖外九首和讃より)

である。

大乗非仏説であるとか、阿弥陀如来など実在しないとか浄土教の成立年代がどうだから、この思想はどうだとか言う人がいたら、
その人々と私はきっと平行線で今後も交わることはないでしょう。

以上、愚案をめぐらして私の信心について書いてきました。どう思われるかは皆様のおんはからいでございます。

追記
平行線で交わらない人々にも
等しく諸仏の光は届いているでしょう。
南無阿弥陀仏。





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