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足りないもの

20代も折り返し、気づけばそんな歳になっていたことを改めて思い出したケイイチは、おおよそすべてを兼ね揃えていた男だった。
しかし何かがまだ足りていないことをケイイチは常に考えていた。
思いつくようなコンプレックスはなく、実家は裕福なために大学を好成績で卒業し、一流企業へ入社。顔立ちは整い、また優しい性格でもある。
そんな自分にも足りないものが何かあると、ケイイチは大学を卒業した頃から思い始めていたのだ。
適度に女性とも付き合ってきたが、ここは順風満帆には行かないことが多かった。
イマイチ関係が長続きしないのだ。
自分から意中の相手に想いを伝えたこともある。大概それは上手くいくのだが、別れはいつも相手から切り出されるのだった。
悲しみに溢れるのは当然だが、相手はみなケイイチの何が不満であったのかを言わずして去っていく。
そのたびにケイイチは自分に足りないものは何かと深く深く考えるのだった。
ケイイチが以前の相手と別れてから、3年ほど経った頃。年度は変わって、春のある日。
自身が勤める企業に支社からの戻りで本社勤務となった社員が出勤してきた。
人数はそれほど多くないが、リストを見たケイイチは思わず声を出してしまった。
「あっ…この名前は…」
以前付き合っていた女性の名前があったのだ。珍しい苗字であったから覚えているし、名前の漢字も一致している。
「何か見覚えがあるのか?」
と声を入れてきたのはケイイチの上司だった。
いい年だが結婚して20年近く経つ、普段は優しく時にしっかりと叱ってくれる良い上司だ。
「いや…たぶん、たまたまです」
「知り合いか?それとも…」
ケイイチは平静を装って答えたが、相次いで投げられた上司からの返事は至極当然の問いだった。
温和な性格ではあるものの頭が切れ、洞察力に優れてもいる上司はケイイチの顔をよく見ていた。
「まあいい。そのリストに乗っている社員はうちの部署に配属予定だ。一応、先輩に当たるからな。心配はしてないが、粗相はしないように」
「…………」
ケイイチにとっては珍しく、他人の言葉、それも上司の言葉が耳を通り抜けていった。
返事がないことに上司は特に物言いはしなかった。
といっても出勤してきて自分たちの部署に既にいる社員たちに挨拶をする戻りの社員たちの中に、かつての彼女の名で名乗る社員はいなかった。
一通り挨拶回りが終わったのち、ケイイチはほっとしたようなドキッとしたような、曖昧な気持ちを抱く。しかし他の社員にこの社員の方はどちらへ?と聞く勇気はケイイチにはなかった。
次の日。
家を出て通勤の道中、ケイイチは昨日の事が頭から離れなかった。
会社に着く。昨日は見かけなかった女性がいることにケイイチはすぐに気がついた。
背を向けているので顔が分からないが、艶やかで漆黒のロングヘア。身長はケイイチほどでは無いがやや高め。一目見てわかる特徴も一致している。
ケイイチは敢えて声をかけず、その女性の斜向いにあるさり気なく自分のデスクに座る。
何知らぬ振りで顔を見てそこから考えようとしたがそれは直ぐにできなくなった。
「ケイイチさん。久しぶりね」
向こうから声をかけてきたのは想定外だった。
そう言ってニコッと微笑む、以前付き合っていた女性─、カオル。
一瞬にして当時の思い出が湧き出てくる。
……ああ、彼女はぼくにまたどこかで、といって去っていったんだっけか。
ほんの数秒の間だが、速読をするかのように捲られていく記憶。ふと我に返ったケイイチは、記憶のページに栞を挟み、返事をする。
「ああ、久しぶりだ、本当に」
一言発すると周りの目が変わるのをケイイチは感じた。
「知り合いなんです。昔の」
ケイイチは質問される前に周りに向かってそう言い放った。
周りの社員からも、それ以上の追及はなかった。
特に嫌なわけではないが、こんな事があるとやはり多少は仕事に集中できにくい要素となる。
「世界は狭いなあ」
ケイイチはひとりつぶやき、気を切り替えて仕事に打ち込んだ。
3ヶ月程経ったある日の退勤前。
「ケイイチさん、この後空いてるかしら」
カオルはそれとなく書類を渡しに来つつ、小声でぼくに言う。
翌日は休日なので、久々にひとり、軽く飲みに行ってやろうかと考えていた。ふとカオルの顔をみると、当時と変わらない上品な笑顔で返事を待っている。
「ああ、空いているよ」
べつに、ひとり飲みに行くのなんていつでもいい。
人からの誘いはなるべく受けるようにしていたし、ケイイチはカオルが何故ここにいるかも聞き出してみたかった。
「あら、なら食事にでも行きましょう。いい店を知ってるの」
カオルはそう言い、ぼくの返事を待たずに自分のデスクへ戻って行った。
やがて退勤。カオルの姿は気づけばなかった。
会社を出ると、ポケットに入れていたスマートフォンが鳴る。
番号も見覚えのあるもの。4コール鳴らしてからケイイチは応答する。
「はい。カオルかい?」
「もしもし?そうよ、お疲れ様。場所はいつものバーでね。懐かしいでしょう、待ってるわね」
「ああ、分かったよ」
短い会話を交わし電話は切れた。
ケイイチも、カオルに誘わなければ行こうと考えていた、あの頃、2人でよく行ったバー。
ケイイチは足早にバーへ向かった。
到着。数年ぶりに見たバーの外観は当時と変わらない。重厚感のあるドアを開け中へ入ると、いくつかあるカウンター席の奥にカオルの姿がある。
「ケイイチさん。こっちよ」
「おや、お久しぶりです。こちらの方とはお知り合いだったのですね」
手を振るカオルとにこやかにこちらを見るマスター。ケイイチはカオルの横に腰掛ける。
「まあ、ちょっとね。同僚さ。ハイボールをもらえるかな」
「かしこまりました」
手早くハイボールを作り出すマスター。
「ありがとう。あの日、こんな事もあるのかと思って、さっき誘ったのよ」
完璧に間を読み、マスターが手元にハイボールを置く。
「そうか。ぼくに話でもあるのかい」
といってハイボールを一口飲む。割合もぼく好みなハイボールだ。
「ええ。単刀直入にいうと、私たち、もう一度やり直してみたいなと思って」
予想外の言葉がカオルから飛び出した。
脳がその言葉を理解した頃には、マスターも眉を釣り上げて驚きの表情をしている。
「急にどうしたんだい、終わった話じゃあないのか、それは」
「別に冗談として捉えてもいいのよ。私は冗談のつもりではないけれどね。何かの縁よ、これも。世界は狭いわね」
カオルはいい女だった。あのとき、このまま関係が続けられるなら婚約してもいいとケイイチは思っていたくらいだった。
「少し考える時間をもらえるか、唐突すぎて整理が追いつかない」
カオルはケイイチの顔を見ながらカクテルを飲み、笑って答える。
「やっぱり慎重なのね。いいわよ、3日あげるから、考えておいてね」
3日。長いようで短い猶予。
ケイイチは散々考えた挙句、断ることにした。色々考えたものの心境としては複雑で、明確に断る理由は無いが、周りの目も気にしてしまいそうで怖気ついたのだ。
3日後。終業間際。
「ケイイチさん。あの件のことは…」
不意に後ろから投げられた言葉だったが、機敏にケイイチは振り向き答えた。
「ああ。なら、食事でも」
2人はいつものバーへ向かう。マスターはいつも通りの笑顔で出迎えてくれる。
「ハイボールをもらえるかい」
「じゃ、私も同じものを」
やがて出来上がるハイボール。
二口ほど飲み、煙草を燻らせ一息つく。
他に客はいない。心地良い音楽だけが流れるバー。
「あの時の話だけど、結論から言えば、断らせてもらおうと思う」
ケイイチなりにはっきりと、カオルの目を見て伝えた。
カオルは目を逸らし、ハイボールを一口。
大きく息を吐き、若干の沈黙の後。
「わかったわ、詮索は不要ね」
マスターは目を瞑りながらグラスを磨いている。
「ああ、すまない。よく考えた結果だ」
「そうでしょうね。深くは聞かないわよ」
「マスター、彼にジントニックを。私にはキールを」
マスターは無言で頷き、要領よくカクテルを作っていく。2人のハイボールが空いたころ、さり気なく差し出されるジントニックとキール。
「ありがとう。頂きます」
カオルからの声はないが、一口飲む。
キリッとした飲み口のジントニックは、ケイイチの思考をリセットさせるような、そうでないような。
「一口飲むかしら?ワインがベースよ」
促され、ケイイチも頷き飲む。
カシスの風味が広がり、すっと気持ちが落ち着くような。
「美味しいね。ありがとう」
「……あなたへのカクテル、それがあなたに足りないものよ。私のカクテルは、私の気持ちそのもの」
「マスター。会計を。釣りは要らないわ」
カオルは会計を済まし、軽やかに立ち上がる。
「じゃあね、ケイイチさん。また、どこかで」
言葉を発する間も無く、カオルはバーを後にした。
ひとり残されたケイイチ。
「また、どこかで…か」
ジントニックを飲み干し、マスターに礼を言ってバーを出る。
強い意志。勇気。それがケイイチに足りないものだった。

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