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「#おうちでプライド」に寄せて。

 本日は本来であれば、「東京レインボープライド」なる性的少数者へのサポートを行う日本で最大のイベントの日でした。ただ、本年はあいにくコロナ禍に伴い各自自宅にて支援表明を行う「#おうちでプライド」なるイベントに様変わりした、ということなので、この場をお借りして僕なりのプライド、あるいはD&I(Diversity & Inclusion)に懸ける思いをお話ししたいと思います。
 昨今企業戦略やCSRの取組、あるいは政府の施策として性的少数者へのサポート、あるいはD&Iが語られていることは、殊更にここで申し上げることでもないかと思います。ただ、その本質的な意味や取組の理由について、各人各様の理解があるかと思い、せっかくですので皆さんの感じることなどもこの場で教えていただけますと幸いです。
(だいぶ長文にて恐れ入ります)​

① なぜ政府・企業がD&Iについて取り組まなければならないのか?

「プライド」の文脈でいうと、D&Iで支援する対象は性的少数者を指します。性的少数者とは、身体的な性、表現上の性、自身の自認する性、自身の欲求として指向する性などで本来的にはレイヤーが分かれ、いわゆる「男女」という分類は一面的な限られたものに過ぎません。
 D&Iという文脈でいうなれば、障碍の有無、生まれた国や地域、宗教、家庭環境・学歴および貴賤、最近でいえば新型コロナウイルスの罹患歴の有無など、あらゆる差異が人間には存在します。それらの如何に依らず「侵すことのできない永久の権利」として日本国憲法で保障されているのが「基本的人権」というものです。
 では、なぜ基本的人権は保障されなければならないのでしょうか?これは永久不変の価値観など存在しない一方で、「最大多数の最大幸福」を実現することこそが社会の目指すべき姿であるためです。皆さんは「クメール・ルージュ」による大虐殺はご存じでしょうか?詳しくは各自Googleで検索してください。この大虐殺においては、「完璧な農業社会」こそが理想の社会とされ、医者・学者・教員・エンジニアなどのエリート層は国家の転覆を企てる存在として片端から虐殺されたのです。この事件で1970年代後半のカンボジアでは人口の20%強を失い、50年近く経った今でも近隣アジア諸国に対して追い付けていない原因ともいわれています。これが地球上ちょっと離れた国で50年ほど前に起きた出来事です。我々が信じている表層的な価値観はいつ逆転してもおかしくないのです。であれば、あらゆる可能性がある現実を初めから受け入れるべきです。
 その一方、なんでもかんでも許してしまってはこの世は無法地帯になってしまいます。未来の自分たちが差別に苦しまないため、あるいは権力の暴走・濫用を食い止めるためにも、遍く「最大多数の最大幸福」な(=なるべくたくさんの人が、たくさんの幸せを感じられる)社会を構築することが重要となります。

② 政府・企業がD&Iに取り組むと、どのような便益があるのか?

 とはいえ、こんな崇高なお題目、自らが生きる世界には直結しないのではないか、という思いを持たれる方も多いのではないかと思います。ここでは自分自身のため、社会のため、身近な人のため、という3つの視点をご紹介したいと思います。
 まず、自分自身のため、という視点です。D&Iという活動は自分自身が普段考えもしない視野を獲得する源泉になります。自分の信じる道ばかりに固執すると人は簡単に「裸の王様」になります。自身の考え方を常に批判的に捉えることで、より多くの人に考えを届けるヒントを得ることができます。東日本大震災という教訓があったにも関わらず、新型コロナウイルス蔓延時においてもBCP対策が出来ている企業とそうでない企業の差が露呈しましたよね。「滅多に起こらない」「自分たちには関係ない」では、リスクヘッジにはならないのです。
 次に、社会のため、という視点です。今やどのような企業もタコツボ化したマーケットで戦わざるを得なくなっており、ゲームチェンジによるブルーオーシャン戦略を描きたいところです。そのためにはタコツボ化した自社のマーケットへの認識を疑う必要があります。そもそもの顧客は誰か、競合は誰か、協業すべきは誰で、どのような技術が必要で、どのような人材を獲得すべきなのでしょうか?従来の考えの枠組みは本当に正しいのでしょうか?誰がそれを保証してくれるのでしょうか?これらを常にアップデートをし続けないと簡単に過去の遺物となってしまうのが、現代社会です。
 最後に、身近な人のため、という視点です。あなたはあなたの身近な人をどれだけ理解しているのでしょうか?家族、友人、同僚、上司、部下、顧客、みんなあなたの認識する「マジョリティ」なのでしょうか?彼ら・彼女らの話すことのどこまでが事実でどこからが演技なのでしょうか?偏見を持った発言・態度で心を開くチャンスを奪っている可能性は無いでしょうか?もしお互いに「真の本音」で関係構築出来れば、別の未来が待っている可能性は無いでしょうか?


③ なぜ私たちが「自分事として」D&Iについて考える必要があるのか?

 ここまで読んでいただいて、「別にそんなことお題目としてはわかるが、個人の好き嫌いは別問題だ」「嫌い・受け入れ難いという感情を持つこと自体は個人の自由だ」という意見もあるかもしれません。個人の自由であることは否定しませんが、そのことはその人自身の人生を毀損する考えだ、ということも最後に付記したいと思います。
 あなたの持つ「嫌い」という感情は、適切な判断基準に基づくものなのでしょうか?そもそも人の「好き嫌い」はジェンダーであったり社会的地位であったり、そういったもので規定されるべきものなのでしょうか?それよりも誠実さであったり、価値観であったり、愛情であったり、といった判断基準こそが対人関係で重要なのではないでしょうか?
 食べ物の好き嫌いであれば「苦いからピーマンは嫌い」でいいかもしれません。でもそれは、あなたが嫌いだからといってピーマンという野菜自体を否定することには繋がりません。ピーマンを好きな人もいますし、実際問題ピーマンの栄養価は高いですし、ピーマンの苦みこそが料理を引き立てる時もあるのです。
 多様な価値観を認め合いD&I(Diversity & Inclusion)な自己を実現することで、自分自身にも、社会にも彩りをもたらすきっかけになると僕は信じています。単なる「好き嫌い」でそのチャンスを不意にしてしまうのは、長い人生、あまりにももったいないことではないでしょうか?

最後までお目通しいただきまして、ありがとうございました。

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