これからの私たちの役目。

飲食店で働いた経験のある人は、食べ物を大事にする。人が安易に食べ物を残すところを目の当たりにしてきたからだろう。
食べ終えてお箸をそろえて待っていると「まだちょっと残ってるよ」と指摘されて「あっ!」となるものの、小さくて取り切れないから、もうこのくらいで置いていいかと、さっき思ってしまった自分を後でしみじみと反省した。


「もったいない、食べ物を大事にする」
それは、幼い頃より両親や祖父母から教え継がれることの一つでもある。
しかしながら私たちは、ついつい食べきれないほどの量を注文したり、おなかいっぱいで食べれない、口に合わない。そんな理由から食べ物を残してしまうことがある。もったいないという意識が働かないわけではない。けれど、そういうことが日常的に起こっている事実は一人ひとりがどんなに意識していても、完全には防ぎようがないことでもある。


家で、食べ終わったあとの食器を洗っている時、こんなことを思う。野菜のわずかな欠片や食べ物の端っこが、水流にのってクルクルと排水口の小さなザルに流されていく。それを見ていると「ああ、食べものとして生まれてきてその役目をはたさずに終わっていったなあ」というような気持ち。生まれてきて、なんていう言葉の表現はちょっとオーバーだね。けれど本当のことだ。


この前母とランチに行った。食べながら「このお肉やわらかいね 」「味噌汁のお揚げ、ふわふわやー」「ぜんぶ美味しかった!また来ようね」などと、うれしい気持ちいっぱいで食事を終えた。あまりの美味しさに私は店員さんに感想を伝えようと会計へ向かう。母も同じ気持ちだったと思う。

そんな中、ふと横のテーブルが目に入ってきた。よく見るとそこには、半分以上残されたお味噌汁、白いごはんが食べ終えた器とともに重ねられて置いてあった。

母と私は「あれ、あんなに残してもったいないね、なんで残したんかなあ」と小声で会話する。ついさっき「ふわふわやー」とよろこびの声をあげた味噌汁のお揚げも、さみしげにお椀に残されている…
それを見た私は、食べ終えたあとの満足感とうれしい気持ちが少しだけ削がれたような、むなしさにも似た感情が一瞬だけ心の中に湧きあがる。作った人の反応も気になってしまう。私たちは食べ物に人の背景を見たのだろう。


なんかさみしい、足りていない感、ふうっとため息をついてしまうような想い、それを人や自分ほかの物事に感じることが多い。とはいえ、後ろ向きな感情ではない。


世の中の風潮に合わせている自分がいながら、ただなんか心のどっかで「なんとなくさみしい」のだ。なんでだろう??
そこで、いま自分の心の中にある感情を紐といてみる。


最近、人や物事から内にある背景や想いが見えてこない。容姿端麗、SNSにあげるために画像として煌びやかに飾られた人や物。ときに私自身も娯楽として、それらを写真などに収め情報交換をするようなことはある。


でも、じわじわとしたような「ずれ」を世の中全体の風潮を通して感じている。


それはどっかに「忘れもの」をしたような感覚。たとえば子どもの頃の『お楽しみ会』の催しのような手づくり感と人のぬくもりが感じられるワクワクとしたもの!
じんわりと心があったかくなる、または感動して思わず心の声が飛び出すような出来ごと。心の芯の部分で受けとって感じるということである。


「なんとなくさみしい」の根底にあるのは、それなのかもしれないね。


その欠片を拾いあげて試行錯誤しながら、時に教わりながら、形として立ち上げるのが、これからのメディア、延いては私たち全体の役目であると思っている。