立場の逆転

ここに先に記しておきます。

お恥ずかしながら私はいまだに、「概念」という言葉の意味をはっきりと理解できずにいる。この言葉をこと細かに解き明かそうとすると、いつも自問自答の渦に巻き込まれてしまう。

そもそも、概念という言葉を使う人なんて私の身のまわりにはいない。日常会話をどうたどってみても 「**の概念は」 なんて言う人は一人もいない。触れるとすれば本やネット上くらいだ。意識し始めたのも最近だし、知ろうとはしているよ。けれど別に、解明なんてしなくても生きていける。そのくらいの気持ちで生きてきたというのが正直な所である。


言葉とは、不思議なものである。きれいに磨き上げて扱おうとすると、伝わりにくいものに変わる。それとは逆に、もとの形のまま表面を作り込まずに発した言葉であっても、ある人にとっては忘れられない一言になることがある。だからこそ、おもしろい。


以前、勤めていた仕事場でこんなことがあった。

これは私が受けもっていた、子どもたちとの自由時間におきた、やりとりの一場面である。ある日ひとりの子が、真ん丸な目を輝かせながら、真っ直ぐに私の目を見つめてこう言った。


せんせいどんなやまがすき?

えっやま

( 花や食べもの、動物、人なら具体的に浮かぶけど )

やま

やま?

あの山

…………

ふいに投げかけられた質問に私の思考は動きが止まる。


ど ん な や ま が す き


たった8文字である。抽象的ともとれる質問に、開いた口はパクパクしどろもどろ。一瞬で答えを返すことが出来なくなってしまったのだ。


うん、いったん落ちつこう。先生いま考えてみるから、ちょっと待ってね。
まずは身のまわりの状況を把握すべく、彼女の手元に目を向ける。メモの端切れに、絵が描かれている。あっなるほど、このことね。でもまだそれだけでは話の真意をつかむことはできない。質問を受けたのだから、大人として返すのが当然の人としての役目だ。また数秒間、考えこむ。答えは出ない。


あきらかに狼狽える私を見てその様子を察してくれたのか、彼女はふたたび話をつづけた。


夕方のやまと、昼のやまと、朝のやま


えっじゃあ、昼のやま、かな

私は彼女の言葉を真似るように返す。

まずい、いい大人がこれはまずい。立場が逆転している。これでは場を取り繕っただけにすぎないぞ、こんなんで大丈夫ですか。


「昼のやま」 、それを訊いた彼女はその場からフワリと去っていき、またお絵描きの場にゆっくりと、もどっていった。


ほどなくして、私の返答をもとに描いた絵を披露してくれた。そこには、たしかに「昼の山」 と想像がつく、あかい色のお日様と鮮やかなみどりの山が、色えんぴつで紙全体に広く自由にていねいに描かれていた。

「きれいにかけたねー」 などとまたも在り来りな言葉で返す私。どうやら思考はまだもとの位置に定まりきっていないらしい。


当の本人はお絵描きをしながら、ただ思いついたことを素直に口にしただけかもしれない。しかし私の気持ちは、違った。これまでの歩みのなかで、どの場面をふり返ってみても、「山」 という言葉だけに着目して考えたことがない。世の中には日々絶えることなく無数の言葉が飛び交っている。それなのに 「どんなやまがすき」 たった数文字の言葉に、私は頭が真っ白になり、あげく完敗したのである。そして気持ちを持っていかれた、心に残したいとまで思ってしまったのだ。


発想の原点とは、人の物事の出発点とは、こういう所にあるのではなかろうか。そんな考えにまで行きついてしまった。


私はいまだに、あの質問に対してどういう返答が正解だったのかと考える時がある。
つまり彼女は『考える余地=たのしさ』を私に与えてくれたのだ。


あらためて、自分自身に問う。言葉にまどろっこしい説明や特別な表現は必要ですか?


大人である私に、こんなにも新鮮な課題を残してくれてありがとう。そんな気持ちにさせてくれたある日の出来事を、私はいまも忘れない。そしてこれからも。