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「神様お願い」と思うとき

今年の春、姪が生まれて私は伯母になり、父と母はおじいちゃんとおばあちゃんになりました。
我が家では、久々の新しい命の誕生です。

折しも自粛期間開始早々の4月初旬、のちには立ち合い出産もできなくなったと聞いたけどこの頃はまだ「面会は1日1人まで」というルールで弟も出産に立ち会うことができ、彼らにとって初めての子どもとの対面を夫婦で迎えることができた。
埼玉と東京だったけれど私も携帯を目の前にし「陣痛が始まった」と聞いた時からドキドキしながら誕生の連絡を待った。

本当はすぐさま病院に駆けつけたかったけどLINEで受け取った連絡だけでも喜びと安堵を感じ、じんわりと温かな気持ちで誰にともなく「ありがとう」という言葉が出た。

出産後、義妹は義父母にあたる私の両親の家で過ごし、毎日のように姪の成長の様子を写真で送ってくれた。
どこの子どももかわいいけれど血を分けた弟の子どもはなおのこと愛おしくメロメロになるのはあっという間だった。
直接会えないのはさみしかったけどLINEのおかげで日々の様子は見て取ることができ、家族で姪の成長を見守ることはみんな初めてのことだったけど小さな命のおかげで私たちは毎日笑顔になれた。

姪の心臓音に異常があることが分かったのは生後間もなくのこと。
LINEの文面だけでは事態がよく呑み込めずすぐさま母に電話して勢いよく問い詰めると、

体が大きくなるにつれ解消されるものかもしれないこと
今は様子を見て時折検診に行く状態であること

ということが分かった。

「それに、あんたも子どもの頃同じこと医者に言われていたんだよ」
とこともなげに母は言った。

そうなの?!初めて聞いたけど!

1歳になるころには安定して通常に戻ったそうな。

姪と同じように両親にとって初めての子どもだった私がそんなことになっていたら随分と心配をかけたことだったろう。

とは言え、こうして離れて暮らす上に何もできないことにもやもやは隠せない。

スマホで写真や動画を見ながら姪のことを思い、仕事帰りの夜道をてくてくと自宅まで歩きながら空を見上げて自然に出たのは
「神様、お願い」
という言葉だった。

自分でもびっくりした。
ここ何年も、神様に祈ることなんてしていなかったから。

寺社にお参りをしてもなにかお願いごとをすることは、もうない。

健康でいられますように
仕事が順調に行きますように
あの人といつまでも仲良くいられますように

そんなお願い事、神様どころか誰も聞いちゃくれない。
願い事は自分で努力して手に入れるしかないと分かってからは神様に祈ることはやめていた。

手を合わせても言葉にするのは感謝だけ。

いつもありがとうございます
今日もこうして健やかに生きています

「今ここ」という点の感謝であって未来も過去も祈りも願いもしなかった。

そうか、祈るというのは誰かのためにする行為なんだ。
愛していればいるほど願わずにはいられない誰かの幸せを思うときに人は神様に手を合わせて祈るのだ。

祈りって、こんなにも純粋無垢なものだったんだな。

姪に私や弟の小さなころを重ね合わせて話す母の口ぶりや
姪を抱き上げ庭を散歩する父の姿を見て私も子どもの頃、ああやって庭に連れ出してもらったな、と思い出し彼らの愛情を改めて思い知る。

きっと父も母も手を合わせて神様に私たちの幸せを祈ったのだろう。

神様に祈るのはは自分のためじゃない。
神様にお願いしたいのは、誰かの幸せ。
神様は、人の愛してる気持ちを相手に伝える役目を担っているのかもしれない。

だから、神様お願い。
あの子が、私の愛する人たちがいつも笑顔でいられますように。
大切に思っていること、愛していること、幸せを願っているこの祈りを伝えてくれますように。

これまで私のために誰かが祈ってくれたように、私も誰かの幸せを願って神様に祈るのだ。


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