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おんなじが嫌い

誰かと同じ、
いわゆる「かぶる」っていうやつが
嫌いです。

もっと言うなら
「まねされる」ことは
もっと嫌い。

気にしすぎ、
自意識過剰なだけかもしれないけれど
たとえそれを差し引いたとしても
「まねされてる」ことが
昔からたびたびあった。

誰かになりたいなんて思ったことない

美容院で芸能人やモデルの写真を見せて
「こういう感じにしてください」
っていうのもイマイチ信じられなかった。

なりたいイメージを具体的に分かりやすく
伝えるツールとして写真の提示をするなら
分かるのだけど
「この人みたいになりたいから、して!」
っていう気持ちはまるで分らない。

誰かになんてなりたくない。
私は私なのだから。

自己意識や自我が強すぎるのも考えもの。

誰かにまねされることは
あなたが素敵だからだよ、
憧れられてるんだよ。
なんて言われたとしたって
それは何とも気持ち悪いものなのです。

「他の誰でもない私」になりたくて
そこに重きを置いているのだから
私と同じことなんてして欲しくないのです。

本当に「真似されたくない」の?

そう思う気持ちの裏側には何があるんだろう?
不自然な強い感情は違和感があり、ついつい気になってしまいます。

もうこれはシンプルに
「承認欲求」なのかな、とも思います。

誰でもない、私を見て欲しい。
誰とも違う、私を認めて。

すごいって言って欲しい。
ステキって言って欲しい。

でも認められたところで
ステキと言われたところで
誇らしいような嬉しいような気持の隅に感じるうしろめたさ、罪悪感。

そのエゴを満たしたところで結局は何にもならないんだということを本能では知っている。
そのチラリとした心の痛みを見逃しちゃいけない。

満たされるべきは自分自身の自己肯定感。
小さな虚栄心を満たすより自分を満たしてあげましょう、という話。

そうすれば真似されることだって嫌じゃあなくなる。
褒められてうれしい気持ちもうしろめたさを感じることなく素直に受け止められる。

自己肯定できてなかったのは堂々と自分を表現すること。
さっさと一番乗りで駆けて行って
「こういうの、いいでしょ!」
と言ってそれをみんなが真似しだしたらそれはそれですっきりしたはず。

自己PRしないで、人に真似された時
「それ、私が最初にやったのに~!」
って思うから真似されるのが嫌だったのだ。

暑苦しい自分を見せよ

必要なのはこっそりとしてるんじゃなくて堂々と
「私ステキでしょ!」
と公言してはばからないこと。

「自分が好き」なことをオープンにできたらきっと真似されてもなんとも思わないはず。

真っ先に「ハイ!」と手を上げられること。
ビーチフラッグで真っ先に走って行ってフラッグを取れること。

足りなかったのは最初の踏み出す勇気、
必要なのはフラッグを取りたいと思う気持ちを隠さないこと。

クールなふりして大人ぶってたってなんの結果も手に入らない。
見苦しいほどの情熱を見せたっていいじゃないか。

重い腰をそろそろ上げてみよう。




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