人生なんてゲームみたいなものだと思ってた
誤解を恐れずに言えば、昔は人生なんてゲームみたいなものだと思っていた。
ゲームは面白ければ面白いほどいい。
だから、選択できるとしたらより波乱万丈なほうがいい。
そう言うと、本当に悲しそうな顔をして母が「やめて」というのでこの話はその後しないようにした。
ふとした時に、そう思っていたことを思い出した。
しばらく忘れていたのは、ゲームを楽しむ余裕がなくなっていたからか。
この前、久ぶりにジョギングをした。記録を見ると実に3か月ぶり。
その前はもっとひどいものだった。その間、実に5か月ぶり。
走り出して1分で「もうやめたい」と思ったけどなんとか右に左に足を前に振り出して踏みとどまった。
訪れるはずのランナーズハイは、全然来ない。苦しいだけの時間がただただ過ぎようやっと楽に足が踏み出せる瞬間が来た。
まるで生まれついてのランナーのように軽やかに、走ることと呼吸することは同じなのだと錯覚する瞬間。自分もマラソン選手になれるんじゃないかとさえ思ってしまう。
でも、一瞬で終わる。ピークの時間は瞬く間に消えてなくなる。マラソン選手はやっぱり夢だったのだと重い脚が教えてくれる。
手に入ったと思った快さを思い出そうとするけれど、後ろに流れていく景色と一緒に後方に置いてきてしまったようだ。
この幻は何度遭遇してもいつも記憶に何の片鱗も残さずに消えていく。
さいころを転がし続ければいつかはよい目が巡ってくる。でも一瞬で過ぎ去るから見逃してはいけない。
良い時もあれば悪い時もあって、ともすれば苦しい時間のほうが長いことだってある。その分、喜びは倍増する。
でもいつもピークに達した時に、よい目が巡ってきたときに、一獲千金を当てた時に思うだろう。
「これが私、欲しかったんだっけ?」
「これって意味あるのかな?」って。
何かを得た喜びとともに訪れる満足感と、同時に訪れる無価値観。
欲しかったはずのものが、色あせる瞬間。
まるでマジックのように、ゲームのように、ショータイムは眩さと暗闇を伴って展開される。
人生なんてゲームみたいなものだ。
盤の上に乗り続ければ華麗なステップを踏んで踊り続ける。
そこから降りる選択肢もある。
サイコロを振らない選択肢もある。
だけど、
まだ踊り続けたい。
まだサイコロを転がしたい。
まだ戦いたい。
まだ全力で生きてみたい。
まだ自分の可能性に賭けてみたい。
持てるリソースを全部突っ込んで、楽しんだ者勝ちだとしたらより波乱万丈なほうがいい。
死ぬまで続く、人生なんてゲームみたいなものだから。
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