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わたしの「先生」

教育に戻ってきた。

あまりにも紆余曲折のありすぎたここ数年だったけれど、やっぱりいざ戻ってきてみると、ここがホームグラウンドなんだろうという気持ちが湧いてくる。

結局は途方もなく人間がすきなのだ。そして人間にいちばんふかく関われる仕事は教育なんだろうと、心のどこかでもう信じきってしまっている。

先生。

先生って言葉は正直あまりすきではない。既存の意味がちょっとべったり付きすぎじゃない。学校とか塾とか何かしらで、勉強を教えてくれる人。

わたしにとっての先生が教えてくれたものは必ずしも勉強ではなかったし、そして彼らは必ずしも「教師」ではなかった。


すきだった「教師」で言うと、何人かは顔が浮かぶ。

小学校1、2年のときの担任の先生。わたしの学年はその小学校では10年に一度レベルの問題児学年だったらしく、誰が担任を受け持つのか職員室ではけっこう注目だったらしい。きれいで、明るくて、サバサバした女性だった。この先生とのやりとりで忘れられないものがある。たしか2年生の、長期休みのときだった。先生はその前の学期から育休をとっていた。母親から、先生は流産したと聞いた。母親は、姉とわたしを産む間に一度流産を経験していて、だからわたしはそれを知っていた。そしてその先生から電話があった。「ごめんね。先生もうちょっと学校に行けないかもしれないんだけど、始業式の作文読むの、すみれに任せてもいいかな。すみれなら安心だから」。先生の声は暗かったけれど、それでも気丈だった。7歳とかせいぜいそのくらいでも、先生がいまいかにつらい状況かは7歳なりに想像ができた。先生に胸を張れるような作文を書こうと思った。それが当時のわたしにできる、精一杯の励ましだった。学校に戻ってきた先生は、相変わらず明るくて素敵な女性だった。わたしの作文と発表の様子を他の先生に聞いて、「立派だったね」と褒めてくれた。いま思えばわたしは彼女のようになりたくて、だから将来の夢は「小学校の先生」だった。はじめて抱いた女性としての憧れが、彼女だった。

小学5、6年のときの担任の先生もすきだった。反町隆史似のイケメン。わたしは先生の金魚の糞みたいに着いて回って、喫煙所にまでくっついて行った。いま思えば喫煙所でくらい息抜きさせてあげてもよかったなと思う一方で、あの先生はそういうときちゃんと「先生ヅラしない」姿でいてくれた。そういう人間らしい彼がすきだった。仮にわたしの煙草休憩に生徒が着いてきたとして、きっとわたしもそんなときは「先生ヅラしない」わたしで接するんだろうなと思う。ご時世的に未成年が喫煙所に来るのはよろしくないけどネ。

中学3年生のときの担任の先生にもお世話になった。ちょっとくたびれた感じのおじさん。わたしが成績優秀特待生(授業料が全額免除だった)のくせに中高一貫の高校に上がらず公立高校を受験すると言い出したとき、職員室ではわたしのための職員会議が開かれるほどには問題になった(そりゃ大学合格実績のための特待生なのだから、端的に授業料泥棒である)。けれど先生はそんな大人の事情はおくびにも出さず、わたしの受験を後押ししてくれた。高校受験の申し込みはこの担任がしてくれたのだが、受付開始日の開始時間すぐに申し込んでくれたらしく、先着順で決まる受験番号は2番だった。普段は仏頂面だったのにそんな風にやさしさが垣間見えてしまうところが、なんとも言えずすきだった。

中学の部活の顧問はおそらくいままで出会った先生の中でいちばんすきだ。特定のエピソードを挙げるのが難しいほどには思い出がある。人間として大事なものの基礎はだいたいこの先生に教わった気さえする。当時は若かったので気分屋な節はあり、「絶対いま先生機嫌悪いから怒ってるじゃん」みたいなこともありはしたが、そういうところも含めて人間らしかった。彼は、同じく中高一貫の高校の方に通っていた姉の担任でもあって、実はそっちのエピソードの方がわたしの中では印象的だったりする。姉と姉の友人は当時反抗期真っ只中で、家出をし学校にも通わなくなったとき、彼が姉たちに連絡し、深夜のファミレスで会ったそうだ。「お前たちどうせろくなもの食べてないだろう」と、すきなものをたらふく食べさせてくれた。家出や不登校を責めるようなことは一切せず、「元気に生きてるならそれでいいよ。生存確認の連絡だけは返せよ。来たくなったら学校に来ればいいから。じゃ」と、そのまま別れたと聞いている。保護者と学校への対応を考えると、普通の高校でこの対応をするのはけっこう難しいだろうと思う。そういうことのできる先生だった。姉が生涯でいちばん信頼していた先生も彼だった。

高校では高2、高3のときの校長先生がすきだった。人生で唯一、全校朝会の「校長先生のお話」がねむくならなかった先生だった。10分かそこらの話のために毎週分厚い本を3冊以上は読んでいたらしい先生の話は、いつも示唆に富んでいた。受験前に気持ちが落ち着かなかったとき、わざわざ校長室に出向いて「激励の言葉をください」と言いに行ったりもした。けっこう厚かましい話ではある。もちろん校長先生は丁寧にわたしと話をしてくれた。わたしのクラス宛にもらった校長先生直筆の激励の言葉は、副委員長なのをいいことに受験後持ち帰り、いまでも実家の部屋に大切に保管してある。

高3のときの塾の先生でもすきな人がいた。いま思えば鹿児島大学の学生だったんだろうが、とにかく話のおもしろい人だった。小説の話で盛り上がったとき、「『容疑者xの献身』がおもしろすぎてコンビニの立ち読みで読破した」と言っていたことはいまでも忘れない。バイト代で買えよ。

と、挙げだすと思いの外多い。いかんせんすぐに人間をすきになる人間なので仕方ない。


「教師」でない、人生の「師」で言えば真っ先に亀岡の名前を出さないわけにはいかない。

彼と出会った21歳からわたしの人生は始まったと言っても過言ではない。自分に向かって「問い続ける」ことを彼には教わった。教育のフィールドにどっぷり浸かったのも彼がいたからだった。象徴的なエピソードは書き出せない、だって彼とは多くの時間を共にし、いくつかのプロジェクトを一緒に回し、そうやって過ごしていく中で、彼の真摯なあり方からいつもいつも学べるものがあったからだ。かつて彼が師匠だったころ、わたしの目標は彼が安心して背中を預けられるような人間になることだった。いまのわたしはそうなれただろうか。少なくともいまは彼はわたしの「師匠」ではなくなり、いちばん大切な友人のひとりになった。それでもいまなお、彼のくれた言葉はいちばんまっすぐにわたしの中へ飛び込んでくる。ずっとずっと彼の言葉に、彼の存在に支えてもらっている。

「師」と思える友人は他にもたくさんいる。わたしがそばに置いている友人なんてそもそもわたしにとっては必ず何か尊敬できるものを持っていて、だからそういう面については師と仰がざるをえないのだ。彼の類稀なる好奇心も、彼女の際立った美学も、あの人の力強いやさしさも、あの子の不器用な生存戦略も。


まとめてしまうならこうなるかもしれない。わたしは教師の「先生らしからぬ」ところ、あるいは逆に「徹底して先生であろうとした」ところに惹かれたし、友人たちが「自らの尊厳をかけて培い、表出した」ものに最大の敬意を抱いてきた。


結局わたしにとっての「先生」とは何なのだろうか。それはきっと、「こんな風でありたい」と思わせてくれるすべての人だ。生きていくこと、生き続けていくことはわたしにとってはそこそこに難儀なことで、難儀だと感じるそのときにこそ、「彼ら」はわたしの心の支えとなる。彼らの言葉が、生き様が、わたしの中で思い出されるとき、「まぁもうちょっとがんばってみようか」と思える。まだわたし、あの人には全然及ばないし。もうちょっとさ、彼らにかっこつけられるわたしにはなっておきたいし。

「先生」になる。もっとも、うちの学校ではそういう言い方はしないのだけれど。たまに勉強を教えてくれる、ちょっとだけ物知りな近所のお姉さんくらいに思ってもらえたらいい。

わたしが師と仰ぐ彼らのような存在に、わたしはなれるだろうか。まぁ少なくとも二度ほど闇落ちした人間なので、そういった部分で学生に語れる言葉は多少持ち合わせているつもりではいる。

コロナの影響でまだ正式な開校はできていないけれど、ひとつだけ自信を持って言えるのは、学生ひとりひとりとしっかり知り合うことができれば、わたしは彼ら全員を余すところなく愛することができるということだ。わたしはこれから、きみたちのことを考えずにはいられない毎日を送るようになる。そういう人間なのだ。こればっかりはもう、たとえウザがられたってやめられないだろう。もちろんウザがられちゃったら行動は控えるけどネ。


最初なのでちょっとばかし自己紹介と決意めいた記事を。これから、あなたの心のそばにいられる人間であれることを祈りつつ。

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