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「結果を引き受ける」ということ

教師という仕事はつくづく、学生と向き合いながら自分と向き合う仕事である。

わたしは常々、学生に言葉を発しながら、わたし自身のことを見つめている。わたしの言葉選びは適切なのか、いまの言葉は「教師」としてなのか「わたし個人」としてなのか、わたしは立場としてどのように偏っているのか。特にここ数ヶ月強く意識しているのは、「わたしの経験から来る言葉は、わたしの生存バイアスがもたらしたもので、それはこの子にとって暴力的なものなのかもしれない」ということだ。

わたしの言葉の裏には、たくさんの無意識の蓄積が存在している。わたしは常に、わたしが当たり前としてきたことの上に立っている。その当たり前が学生とわたしの間でズレている場合、その言葉はきっとそのままでは学生には届かないし、届かないどころか、それは凶器にもなりうる。だから、わたしはわたしがどんな当たり前の上に立っているのか、どれが“一般的な”当たり前で、どれがわたし個人が当たり前としてきてしまったことなのか、常にそれを探り続けなければならない。

しかしそれは、教師だからこそよりソリッドに意識してきたというだけの話で、わたしが21歳のころからずっと気にかけ続けてきたことではある。言葉に対して覚悟を持つということ。

言葉は人と人を結ぶものであり、いとも簡単に離してしまうものでもあり、時に人を救うものであり、時に人を殺すものでもある。

言葉は常に晒されている。否定や否認、批判や非難、誤解に曲解。わたし自身の言葉が刃物かもしれないし、一方で、わたしの発した言葉に刃物が返ってくるかもしれない。

だから覚悟している。誰かを傷つけることも、自分が傷つくことも。しかしわたしは少なくとも、できるだけ誰も傷つけないようには配慮し続けたい。そしてできることなら、自分が傷つかないような先回りもしておきたい。理解してもらいたいと願うし、あわよくば届いてほしいと祈る。そうやって考えて、納得いくものを出す。そして、その言葉の先に生まれた結果を、すべて引き受ける。たとえどんなに認めがたい結果でも。それを生んでしまったのはわたしだ。だから引き受ける。

「引き受けろ」とは学生にしばしば思う(実際に口にしたことはかなり少ないが)。とはいえわたしも、高校3年生で母親に「あなたはよく全校の前で話したりすることが多いけれど、その言葉に責任を負えてるの?」と言われるまで、責任だとか覚悟だとか考えたこともなかったし、実際21歳で本当に取り返しのつかないことになるまで実感を持っては気付けなかった。21歳のわたしは一度内的に死んで、このように生まれ変わったわけであって、それは当時の無責任な言動を撒き散らすわたしを木っ端微塵になるまで殴りつけてくれたありがたき友人の存在あってこそなのだが、じゃぁ自分がそんな風に誰かを殴りたいかと言うと、まぁそこまではやれないなという気がしているし、そもそも人間はふつうそこまでされると壊れる。「一回死ねばわかる」という言葉がしばしばわたしの頭をよぎるが、それは生存バイアスが過ぎるので口には出さない。

だからわたしは、「結果を引き受ける」という姿を身をもって学生に見せながら、時間をかけて、言葉を選んで、彼らに伝えていかなければならないと思っている。言葉だけではない。自分の行動、自分が選んだこと、すべては常に晒されている。だから覚悟しなければならない。自分が生んだ結果は引き受けなければならない。

一方で、すべてを「自己責任」とする発想はわたしはあまりすきではない(自分自身に対しては、使い勝手が良いのでしばしばすべて自分のせいにしてしまうが。わたしにとっては、人のせいにするのは自分のせいにするよりよっぽど心が削れる)。本当は、すべてを自分のせいにするのは、心の健康上あまり適切ではない。まぎれもなく人のせい、環境のせいであることもしばしばあって、それについては適切に誰かの・何かのせいにするべきである。そうした上で、自分のせいであることについては、まっとうに引き受ける。

たとえばそういった、「ここまでは誰かのせい、ここまでは自分のせい」という切り分けには、状況を構造的に理解できている必要があり、それをできるようになるためには“勉強”がいる。引き受けるという強さを持つためには、「わたしはこうなんだ」という確信が必要で、それは「Who are you?」という問いへの回答としての自分の「スタイル」であり、「スタイル」を築いてくれるのは、その下に眠るあらゆる成功体験・失敗体験である。

だから学生には、学ぼう、と思う。そして、成功でも失敗でも、とにかくやってみようよ、と思う。正確に言えば、成功・失敗体験にはそれぞれ「いい/悪い」があり、悪い失敗体験などは積んでも仕方がないので、そうならないようなフォローはできるだけしたいよ、とは思っている。

27歳になってもなお、わたしも間違える。間違えたことに気付いて、どうしようもなく凹んでしまうこともある。それでも、その結果は引き受ける。わたしが蒔いた種は、わたしが引き受ける。痛みをすべて飲み込んで、次は絶対に間違えないと誓う。間違えないためにできる限りのことをする。それを積み重ねて積み重ねて積み重ねる。そうやっていまのわたしがあるし、わたしはこれからもそういうわたしであり続けたい。


最後に、これは自戒として、少し「強い」ことを2つ、書く。

ひとつめは、わたしが20代前半のころに先輩が言っていたことで、聞いて以来ずっと大事にしている言葉だ。

「誰かによって傷つけられる、なんてことは本来的にはないんです。自分を傷つけられるのは自分だけなんですよ」。

相手がどんなに悪意を持って、どんなにこいつを傷つけてやろうと言葉を発しても、自分が気に留めなければ傷つくことはない。逆に、相手に一切悪意がなかろうと、自分が傷ついたと思えばそれは「傷つけた」言葉のようになる。でもそれは結局のところ、自分が自分を傷つけているに過ぎない。

ふたつめは、最近名も知らぬ誰かがTwitterに書いていたこと。

「弱さは正義ではない」。

弱さは弱さでしかない。傷つくのは自分の弱さであり、それは正義などではない。正義は、自分の強さ/弱さとはまったく別の次元に存在している。弱さをそのまま正義だと思ってはいけない。少なくともわたしは、弱さと正義を混同しないだけの強さを持たなければならない。


わたしはこれからも学びたい。できるだけ失敗しないように全力を尽くしながら、それでも失敗して、そのことを引き受けて、それを絶対に忘れないようにして生きていく。自分が自分を傷つける様をじっくり見届けて、そして強くなりたい。

こうやって書くことはわたしのひとつの覚悟の形だ。こんなにも些細なブログひとつ、わたしはいつも表に出すのがこわい。それが、晒されるということだ。何度も推敲して、腹をくくる。そして公開のボタンを押す。

わたしはわたしを背負い続ける。そんな姿が、いつかほんの少しでも学生に届いてくれたら、それはきっと教師冥利に尽きることだと思う。


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