遥かなる砲声に耳を澄ませよ

砲撃が止み、ミホーシャが各車に無事かと問うている。
無事なわけがあるものかと心は叫び、頭はノンナのいのちを繋ぎ止める方法を探し回る。手は既にひどく濡れている。
雪の混じる砂浜では各校の残存車両が陣地を構築しつつあった。黒森峰の隊長と副隊長が揃って自車を盾にして、プラウダの隊長が副隊長を助けようとするのを助けている。「500までで見えたものは全て撃て」だなんてあの隊長が乱暴な命令を出す。なんとも信じがたい光景だと妙に冷静な気持ちで見渡してしまう。目の前にある全てと対峙するあの眼をして、あの隊長がまるで出会ったときのノンナみたいだ。違うのはそこに戦車があることと、ノンナが哀しそうな目をしていることだけかもしれない。

プラウダに一匹狼がいるという話は聞いていた。女は酌をして尺をしゃぶってりゃいいんだ、と下卑た笑いと共に彼女を小突いた男が片っ端から歯を折られて「しゃぶれる」ようにされたりだとか、民警――風紀委員のことだ――が見て見ぬふりを決め込むや、絡んできたOBの腕という腕を折ったりだとか。語る生徒が素面かどうか確かめなければならない物語の数々はいずれも事実だった。いくらノンナに問うても、いつも「それは昔の私です」と微笑んで返してくるだけだったけれども。あの当時の彼女は圧倒的な暴力として扱われていた。それに指向性を持たせようとしたグループは相手にされず、無理強いしようとして二度と彼女を直視できない目に遭うこととなった。
一度だけ彼女の喧嘩を見たことがある。無駄に拳を突き出すことはなく、突き出せば必ず相手は床に沈んだ。圧倒的で、しかし完全に意志に支配された暴力。そして、正確な一打で蹂躙する戦車。その二つが結び付くのは寝ても覚めても戦車道の事を考えていた私にとっては当然のことだった。

「すみません……次、があれば二度と……」
ノンナが手を伸ばす。頬に触れる手は温かくて、血のにおいがする。「ノンナ、喋っちゃ駄目よ。そんなんじゃ助かるものも助からないわよ」私は笑えているだろうか? ノンナを積んで後送できないかと話し合いながらこちらを見る隊長たちの目はそれを教えてくれない。ノンナはたぶん、私が無理をしていることがわかっていながら、微笑んでささやく。
「カチューシャ……わたしがいなく」
「ノンナは居なくならないわ。そんなの許さない。カチューシャの命令よ」
そんなことは絶対に認めるつもりはない。

一度だけ私が見たことのあった喧嘩はノンナの最後の喧嘩だった。
ノンナは、ロシア語を話すけれども自らをロシア人とは認めたくない人々の子どもだったらしい。それをからかわれて、彼女は、これまでの喧嘩が児戯に見える残虐さでふたまわりも大きな男たちを次々と潰していった。粉砕していったという方が正しいかもしれない。適切なタイミングで的確なところを叩いてやれば、簡単に相手は崩れ落ちた。私が求めている戦車道の欠点を補う存在。数で圧倒するという戦術のスパイス。最後の一ピース。気がつくと私は、最後の一人の戦意をくじくために顔を殴りつけている彼女に話しかけていた。

私が戦車道をやりなさいと言うと、ノンナはロシア語で何事かを呟いた。意味は私の考えた通りだろう。軽蔑の程度に差があるとはいえ。思い返すと、彼女の顔はきっと故郷でロシアの兵隊に「一回幾らだい、ちびすけ?」と問われた時のその顔だった。いや、たぶん、それよりもっと険しかったんだと思う。私が持ちかけたのは彼女に違う生き方をしろということだったから。少しだけ俺を中に入れろというのじゃなくて、私をあなたの奥に入れろ、支配して教練させろ、ということだったから。

「カチューシャ……あなたは大丈夫……カチューシャは強いから。あなたは一人でも、だいじょうぶ」
「戦うのは一人じゃ駄目って、教えたでしょ」
「戦車道ではありません……これからのこと。これが終わったらのこと」
「それだって、一人じゃ戦えないわ」
大洗市街に布陣した<かれら>が砲撃を再開し、ミホーシャが各車に指示をする。最適解を導き出せる大洗の隊長は、最適解でもなんでもない指示を飛ばしている。私たちふたりを護るための陣形だ。あなたが護るべきは大洗で、私たちは大洗を護る為に来たんじゃないの、と思いながら、私は護られている。 
「プラウダ各車は以後大隊長の指示に従いなさい」と私は叫び、ミホーシャが彼女たちを然るべきところに割り当てる。自分の学校にない車輌ばかりなのに、私ならそうするという場所に各車が移動させられる。彼女がプラウダの隊長だったなら、今もノンナは然るべきところに居て、いのちを地面に還していくこともなかったのだろうか。

ノンナは来いと指定した時間には来なかった。暫くは魔法瓶から紅茶を注いでは飲んでいれば耐えられたものの、いい加減来ない人間を待ち続けることもあるまいと私は練習場に移り、運転と射撃をそれぞれ一人でこなしていった。
冬の空に砲声はよく響く。全身を震わせながら、砲が高らかに声を上げる。一瞬後、遠くで雪が舞い上がる。私と戦車は手のつけられていない雪の庭に降り立った子どものようになって、駆け回っては声を響かせた。
いつノンナが戦車の上に立ったのかは分からない。ハッチが叩かれて、何事かと見上げるとそこにもう彼女はいた。
「それは……撃てるか。今すぐ。教えてもらえば」
今でも覚えている、その日最初の雪片が彼女の鼻先をかすめて車内へ飛び込んできたのを。

ノンナを魅了したのは砲撃、まっすぐに相手を突き破る力だった。戦車は一人で走らせるものではないと納得させるにはそれから数週間かかった。一人で大丈夫だと言い張る彼女に戦車をあてがい、彼女の砲撃を避けつつ撃破することでようやく理解させることができた。一匹狼をやめたのは戦車の中だけではなく、最初は誰も寄せ付けなかった彼女も次第にメンバーの一人となり、やがて頼れる副官となっていった。彼女はもうプラウダの路地を荒らす狼なんかじゃなかった。頼れる副官で、温厚な同志で、私の親友だった。
彼女が故郷の山脈でどういう目に遭ってきたのかはついに教えてくれなかった。ただ、そこでどん底まで落ちたこと、家族と死別したこと、何を恨めばいいのかすらわからなかった、という事は教えてくれた。ノンナはとても頭がいい。だから恨むべきものなど居ないと知った彼女は全てを恨むことにした。「ずぶぬれの犬みたいにいつか惨めに死ねばいいと思っていたんです」と合宿の夜、星空の下でノンナは明るい顔で話してくれた。山脈に響き渡る様々な勢力の同じAKの銃声、弾なのか自爆なのかもわからない爆発の音、そんなものを聞いて育ってしまったんですよ、犬みたいに死んでいく人を見ながら、と彼女は笑いながら話していた。

ミホーシャがIFAKを片手に走ってくる。
「たんぽぽチーム、そちらから右翼を叩いてください」と彼女が叫ぶと、砲身が一斉に動き出す。ハーモニーを奏でながら次々とパーカッションが鳴り響く。彼岸と此岸の砲声の交互に連なるフーガが戦場を支配する。音楽を背にして「大隊長は指揮をしなさい」と私は怒鳴りつける。ノンナもそれは分かっているだろうから。一人を助けるために指揮系統を崩壊させることはあり得ず、だからここにミホーシャが来ることはあり得ないと分かっているだろうから。ミホーシャはぜったいに止まらないだろうなと思ったけれども、意外にも彼女はすぐに引き返した。ひときわ大きな砲声は手前に布陣した機体のうしろ、水族館に覆い被さるように鎮座する<かれら>の母艦のものだ。

血が止まらない。包帯を傷口にねじ込んでも、その包帯から染み出した血が地面に零れていく。砲弾と装甲の破片がどれだけ刺さっているのかは見当もつかない。太腿の出血は尋常じゃない。動脈だ。ノンナのジャケットも地面も暗赤色に染まり、ジャケットが地面に癒着して境界を曖昧にしていく。
「ペパロニ! 押さえろ!」とアンチョビが隣で叫んでいる。アンツィオの三人はCV-33を横倒しにして盾にした後、こちらを手伝っている。圧迫でも駄目だ。たぶん内臓も駄目になっているだろう。一発がCV-33の手前に着弾し、煙がこちらにも舞う。咄嗟に四人でノンナに覆い被さり、血と砂と雪の泥にまみれる。

最初はノンナに甘えてなどいなかったはずだ。ノンナの方も私を甘やかそうなどという気は一切なかっただろう。一戦を重ねるごとに、敗北後に私が泣くごとに、ノンナが副官としての能力を身につけるに従って、どんどん甘えるようになった。亡き妹がいたとか、そういう話は聞いたことがない。だから私をかわいがる分かりやすい理由は見当たらない。理由が必要なのかと自分に問うてみて、要らないじゃないかという確認はもう済ませている。私はノンナと出会ってようやく甘えられる人を得たのだと、今になって気づく。こんなことになるのなら、いつでもちゃんとありがとうと言うべきだったんだと気づく。
私はノンナに何をしてあげられただろう。操縦技術を叩き込む。ドクトリンを叩き込む。礼儀作法を叩き込む。殴る以外の解決策を教える。人の間で生きることを教える。いつか戦車道をやめてしまっても彼女が一人の人間として生きていけるように、教える。一人で生きるのでなく、皆の一人として生きていくことを教えていく。

全ては無駄になった。

それでも全てが無駄になった訳ではないと思い込むには、たぶん、これしか無いだろう。ノンナに提案する。ノンナが頷く。アンチョビが無茶だと言い、西住まほとダージリンが意志を尊重すると言い、ケイがサンダースの医療品をかき集める。大洗の生徒会では一人がもう泣いている。大隊長は肯くと、首に手をやって語りかける。
「全車へ。これよりひまわりチームから隊長車を離脱させ、ひまわり隊長はクラーラさんに変更します。離脱した隊長車は以後ノンナ隊と呼称します」
驚きや抗議の声はない。大隊長の声がここまで震えているのに、自分と同じ気持ちではないだなんて誰が思うだろうか。あの子の優しさは誰もが知っているではないか。それに、抗議できる立場の隊長や副隊長は皆、彼女と戦ってからは思慮深さとその優しさに惹かれている。黒森峰の副隊長、エリカだってそうなのだろう。今この瞬間にいちばん悲痛な面持ちでミホーシャを見ているのは彼女なのだから。

<かれら>の砲撃が再び止む。母艦は四本の脚が支えていて、それぞれ巨大なキャタピラがついて本体、つまり円盤に艦橋を乗せた構造体を安定して支えられる形になっている。脚の一本から煙が上がっているが、本体に被害を与えられているとは思えない。唯一撃破した時には確か…そう、母艦の底面を直接砲撃した子がいたのだった。脚をいくら撃ってもびくともしなかった。撃破するには下から撃つしかなく、撃破した子は帰ってこなかったけれども、ともかくそうするしかないのだった。母艦は徐々にこちらへと近づいてきていて、学園艦に到達するまでそう長くはない。だから、誰かがやらなくてはならない。

私ではノンナを持ち上げることもできなかったから、隊長たちに手伝ってもらう。多少荒くても構わず、車内に引きずり込む。どのみち、砲撃できるようにと痛みは感じないようにしているのだ。ノンナが戦車を登るのにあわせ、血の筋が車体を染める。戦車もノンナのように深い裂傷を負ったようにも見えてしまう。まるで彼女の車両だという証のように。
彼女を座席に据えると、血液パックを天井にくくりつけ、すぐ取れるところにモルヒネのインジェクタを並べる。さいごに戦うための準備だ。
これは私たちの最後の出撃で、ノンナの最後の戦いだ。ノンナはずぶぬれの犬のようには死なない。誇り高く狼として死ぬ。
「ノンナ! チャンスは一度よ! プラウダの力、見せてやりましょ!」
ノンナの返事はない。微かに頬が上がったようにも思う。笑ったようにも思う。そして既に走り始めている。たった二人の出撃。

砂浜を越えて遊歩道に乗り上げると、背後から砲声が響く。回廊を一瞬だけこじ開けられればそれでいいと私が言った通り、速度を落とさず母艦に飛び込める真正面にあらゆる砲撃が集中する。たまらず後退した<かれら>の地上機の鼻先をかすめて、網目に飛び込む。飛び込んだ瞬間、砲撃が歩道に穿った孔に足をとられて車体が跳ねる。着地と同時に背後から呻き声が、一瞬後に血飛沫が飛び込んでくる。

「ノンナ! 装填する余裕はないわ、一発で決めなさい!」と叫びながら、彼女がその一発まで持ち堪えるのかと妙に冷静な気持ちで考えている。
減速せず、ただ母艦に向かって走り続けよう。遠くから砲弾が飛び込み続けるが、放置された車両に命中したり、跳弾して明後日の方向に飛んで行くだけにとどまっている。それにどうせ停まれば命はないのだ、躊躇する理由はない。水族館へ昇る二組の階段の狭間、ギリギリのところで停まれればそれでいい。母艦本体の構造物は下に動力源へ続くハッチが備わっているらしく、そこに正確に撃ち込めば一発で母艦を落とすことができる。移動を再開するまでに極端に時間がかかることも分かっている。つまり、一両だけで機動力を活かして飛び込み、そのハッチ、2m四方の的を砲撃すれば勝てる。ノンナなら数秒で300m先のハッチを狙撃することなど造作も無いだろう。

黒森峰を破って優勝した日の夜、祝賀会の中心は隊長と私だった。隊長は当然に私のことを大いに評価し、次期隊長も確定だという雰囲気に包まれていた。プラウダのお偉方や敬愛する選手に囲まれて浮かれていた私は、メッセージの読み上げで会場が静まるまでノンナが居ないことには気づかなかった。メッセージを聞きながら会場を走り回り、端のバルコニー、誰もいないところでノンナが一人佇んでいるのを見つけた。
「ノンナ、何やってるのよ。あなたの射撃はよかったってみんな褒めてたのに」
「みんな、ですか。みんなの評価はどうだっていいのですが……」
「勿論、私もすごいと思ったわよ。本当によくやってくれたわ。あなた以上の砲手はプラウダに……いえ、日本のどこを探したって居ないんだから」
「……それは、よかった。カチューシャのお役に立てて」
「車両は別れちゃうけど、ノンナは大切な副官よ」
私が手を差し出し、ノンナは跪く。頭を撫で、改めて、ありがとうと言う。ノンナはそれで報われたのだと言い、海が綺麗ですよと言いながら肩車して手すりの先を見せてくれる。彼女が私に輪の方へ戻ってほしくないと感じていることなど見通せていたから、祝賀会の残りはバルコニーから眺めていることにした。

「ノンナ、同じ車両で戦った時のこと、覚えてる…」
再び被弾。今度も抜けてない、大丈夫だ。応戦する余裕は絶対にない、ノンナにはもう装填する力は残っていない。左にフェイントを入れて右へ。外れた弾が地面を穿つ。向こうが装填する前に隙間に飛び込み、最後の防衛線を越える。砂浜からの数発が<かれら>の方に着弾し、同時に<かれら>の撃った一発が私たちの頭上を飛ぶ。
「カチューシャとの試合は全て覚えていますよ」
「歌、もう一度聞かせてくれるかしら。あれを聞くと怖くなくなるの」
背後に衝撃。今度は跳弾じゃない。でも、抜けもしなかった。挙動も問題なし。大丈夫だ。やれる。ノンナがくぐもった声を上げ、今まさに使ったモルヒネのインジェクタがこちらに転がってくる。
「こちらノンナ隊のカチューシャ。あと1分で着くわ。支援ありがとう。以後、隊長からの通信を続けさせてほしい」
「こちら大隊長です。了解しました。各隊はそのまま援護してください……カチューシャさん、ノンナさん、終わり次第、必ず帰投してください」
「ミホーシャ、大隊長なら確実な命令だけを出しなさい」
返事が止まる。聞こえない彼女の息遣いが聞こえてくる。偶然にも両者の砲撃の切れ目が重なった時に戦場へ訪れる不自然な静寂が車内を満たす。あと45秒。
「……各隊は、引き続きノンナ隊の突撃を支援してください」
「支援感謝するわ。後ろは頼んだわよ」
無線は開けたまま。ノンナは息を吸う。あと30秒。

どうして狙いながら鼻で歌うの、と問うたことがある。彼女と鼻歌ほど似合わないものもちょっとないだろう。
「怖いんです。撃つのが。だからせめて、自分を落ち着かせようと」
暴力を見てきて、暴力を重ねてきて、今更戦うのが怖いということがあるのだろうかと訝しむと、ノンナはいつもの穏やかな微笑みと共に続ける。
「撃つべきものを、撃つべき時に、撃つべきやりかたで撃てなかったらどうしよう、と思うんです。カチューシャの期待に沿えないのが怖い。また私のせいで全部駄目になるのが怖いんです」
結局、「また」の意味は訊けずじまいだった。ノンナの故郷の話はどうしても最後まで訊けなかった。ノンナが何を抱えていたのかはどうしても知ることができなかったのだ。けれども、ノンナはいつも失敗が怖くてたまらないという事は決して忘れなかった。
ノンナの歌を聞かされる乗員は、試合の緊張がほぐれていくと言っていた。穏やかに冷静に戦える気がします、と。私もそうだった。彼女の歌が心を満たし、戦場ではないどこかから戦場の自分を眺めているような気分になれた。
同じ車両で戦った日々を思い返すと、決定的な一撃、砲弾が当然のように急所へと吸い込まれていく瞬間にはいつも彼女の歌を聞いていたように思う。たぶん、ノンナが歌っていない時でも私はノンナの歌が聞こえていたんだろう。

いま、全隊に向けてノンナは歌っている。照準を動かして撃つべき瞬間の備えをしながら、車内を血で染めながら、皆を穏やかな場所へ導こうとしている。本当は誰よりも失敗が怖かった彼女が誰よりも落ち着いた顔で歌っている。きっと微笑みながら。
砲撃の音が遠くなる。ノンナの声以外が遥か遠くへ行き、薄い雪に足を取られそうになるたび無意識が軌道を修正する。あと15秒。

あと10秒。一気に減速する。車体が前のめりになり、履帯が地面を削り取ろうとする振動が続く。歌は儚げに、しかし途切れずに続く。あと3秒。車体が静止する。ノンナの歌が止まる。砲声に包まれる。

ノンナの歌が戻ってくる。前からは轟音が、左右からは砲声が微かに聞こえる。車体が横から激しく突かれる。目の前の地面を鉄板の破片が跳ねて行く。母艦を見ようとはしない。ノンナに失敗はないから。
全てが遠くに感じる。脇腹が石でも入れたように重い。よかった、履帯は大丈夫だ。脚に生温い液体が垂れていく。
ミホーシャが何かを叫んでいる。後退を続ける。あと少しで母艦の機能が止まり、地上機も動かなくなるはずだ。あと少しだ。座席に水たまりが出来てきた。あと少しで私たちの戦いが終わる。もう一発。跳弾した。脇腹が熱を帯びている。さらに一発。車体が勢い良く回転する。履帯をやられた。私の血が車体を染める。あと10秒、あと1秒が欲しい。

砲声が止んだ。
「カチューシャさん! 停まりました! ……全隊ノンナ隊の救援急いでください!」
大隊長の声がようやく戻ってきた。終わったのか。終わったらしい。何が終わったんだろうか。いつのまにかノンナが横に座り、私の傷口を押さえている。何かを押し当ててくる。鋭い痛み。途端に体の痛みが消える。ノンナは自分にはもう打たなかった。
「カチューシャ……本当に、ありがとう」
感謝されることなんて何も無い。まだ私は何もしてあげられていない。優秀な副官を得て、それを教練して、日常でもふさわしい振る舞いを教えただけじゃない。頼れる副隊長が欲しくて、自分の為に動いただけじゃない。
「まだ何もできてないじゃない! 私は、ノンナに、何も……!」
「生きなおさせてくれた」
違う。ノンナにその力があっただけだ。本当は優しくて、皆のことを思いやって、だからこそ皆と関わることが怖くて、それでも戦車道を始めようと思えたのは、その力があったからだ。私の砲声を聴いて生き方を決めたのはノンナ自身じゃない。生きなおさせたのはあなた自身じゃない。

私たちは引きずり出され、担架で運ばれていく。西住まほがヘリを呼んでいる。あと30分待たないといけない。私は大丈夫だ。致命傷なんてものではない。ノンナはただ微笑んでいる。
血液が足りなくなる、持ってきなさい、とダージリンが大声を出す。この子がこんな大声を出すなんて、初めて見た。地面に降ろされた私たちの周りでは全てが動き回っている。私はノンナしか見えていない。寝たままで転がり、ノンナを抱こうとする。周囲の人間は手を止めて、私に場所を譲ってくれた。手が回りきらないでいると、ノンナが抱き返してくる。

私はまだ子供なんだと思う。ひとが死ぬという事に実感がわかない。明日起きた時、ノンナが朝食を持ってこないという事が想像できない。ノンナの温かさをもう感じられなくなるという事がわからない。
「カチューシャ……最後に、一つだけ」
最後じゃないわ、変なこと言わないで、とは言えない。
「好きですよ。すごく」
分かっていた。お互いに恋愛なんて知らなかったけれども、たぶんそういう事なんだろうとは。返事が出来ない。隊長として振る舞えない。どうすればいいのか分からない。だからどうもしない。ただ言葉が出るに任せる。
「好きじゃなかったら副隊長になんかしないわ」
ノンナはもっと強く抱く。きっとこれが最後だから、私もできるだけの力をこめる。私の髪に顔が埋まる。髪が濡れる。血でないことはわかっている。

顔を戻したノンナが歌い始める。掠れながら、今にも消えそうな声で歌い続ける。私も続く。数えきれないほど耳にした歌は体に染み込んでいる。周りの音はもう聞こえない。ノンナと私は歌い続けた。もう何も話すことはなかった。ただ私はノンナに子守唄を歌っていた。ノンナが自分自身に歌っているように。

戦いはすぐに終わった。眠りにおちるようにノンナの腕から力が抜け、最後まで戦っていた鼓動も感じなくなった。ちょうどその時、その日最初の雪が手のひらに落ちた。
ノンナが戦車の上に立った日から、どれだけの戦いを私たちはくぐり抜けてきたのだっけ。私はいつまでもノンナを抱き続け、子守唄を歌い続ける。
ノンナの歌は、まだ聞こえている。



あの日から何年も経って、ノンナが<かれら>への抵抗のシンボルになって、私も大隊長の一人になって、これがたぶん最後の戦いになる。最後の拠点を落とせば、ようやく私は戦車を降りることができるだろう。

美しく燃える街を見下ろせる丘に私たちはいる。
「ミホーシャ、マホーシャ、こちらは準備出来た。全部終わらせよう」
「了解しました」
「了解、カチューシャ」
いつものように歌い始める。全隊がそれに続く。ノンナの歌がアンツィオの校歌になり、グロリアーナの校歌になり、サンダースのアンセムになり、黒森峰の唱歌になり、大洗の校歌になって、ポルカが始まる。それからボコのテーマを歌い始める中隊長はもういないから、私が代わりに歌い始める。

みんな誰かを看取って、自分の選択肢を後悔しながら、ここまで来た。
私だってそうだ。

でも、寂しくはない。
だっていつだって歌いながらノンナは教えてくれるのだ。何を撃てばいいのか。いつ撃てばいいのか。どう撃てばいいのか。

だから、寂しくて泣くこともない。
それに、いつもそばでノンナが見ているのだから、隊長として泣くところを見せるわけにはいかない。

全てが終わって、ただのカチューシャになった時に、私はきっと今までの分泣くと思う。
その時までは決して泣かない。

プラウダの隊長はいつも傲慢で高慢だから。いつだって勝利のことばかり考えている小さな暴君だから。
だからこそノンナは私を慕ってくれているから。


いま、私は撃てと命じる。

耳を澄ませる彼女へ語りかけようと、次の砲声を響かせる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?