いま遍くSteamを、

 わたしの町は海沿いにあって、砂浜と岩のほかには山が森が囲んでいる。国道をぬける山にはトンネル。そこをバスでとおって都会に出るときにはいつも、別の世界にぬける門をくぐっていくような、わたしがわたしでない何かを身に纏うかのような、そんな感覚に襲われたものだ。都会で模試を終えて帰る車窓はトンネルを抜けると夕暮れの海辺、とおくに漁船の灯りがゆらめき、黒く山に海に切り取られた空が橙色の帳をおろしていた。

 わたしはわたしの町が好きだった。

 だから、「戦略的に価値のない」遠隔地として忘れ去られると<大災禍>のあの日々に決定された時、わたしは、もう外の世界には頼らないと決めた。幸いにしてわたしは大学で<SteamBox>について研究していて、いまは反日本版規制派として職を追われ、そのうえれっきとした第二級破壊活動家として日本国首狩り部隊、「正しい」名称であるところの治安維持隊、のヒットリストに載っていたものだから、わたしを縛るものはもうなにもなかった。

 わたしはSteamを受け入れた。わたしの<アップデート>によって<SteamBox>を受け入れたわたしの町ではまず通貨がオンライン化され、それから家族でいつどこに居ても資産が共有され、武器は定期的に無料で与えられ、夏にはとおく海の向こうから沢山のものが届いた。それらは外国の匂いがした。日本語マニュアル版でもなく、日本語吹き替えもついていなかったけれども、すくなくともわたしたちにも買える値段で、おまけに、質もよかった。わたしたちはSteamが好きになった。

 町は急速にSteam化していった。漁師さんは今やドローンであるところの<SteamFisher>を管理するオペレーターとなり、八百屋のおばさんはバンドル化した野菜を安く大量に売っていた。通知は一瞬で全員に行き渡り、財布も要らないから、手ぶらですぐ買い物ができた。泥棒の心配ももう要らない。もともと、泥棒なんて居なかったけど。居たのは日本だけ高値をつける人々だ。そういう人たちは<内戦>の早い内に処刑されてしまったので、もうわたしたちはその時代を実感することができないでいる。

 <内戦>が終わって、わたしたちは急速にSteam化していった。クラウド化した自己。シェアされる視点。速やかに交換される物品。わたしたちの脳は外へ外へと膨大に拡張され、ものを覚える必要というのもどんどんと減っていった。なにせ予定は通知され、誰に何を言われているのかも、一覧で見ることができたから。わたしたちはもうSteam無しでは生きていられない。

 Steamがすべてを助けた、と言うつもりはない。喪われたものはたくさんあった。もう子どもたちは海で遊ばない。もう別の世界というものは無くなった。何故ってわたしたちはSteamですべてと繋がり、すべてがつながってくるのだから。もうすべてがわたしたちの世界だ。それはとても寂しいことなのかもしれない。かつてはSteamの他にもわたしたちがものを手に入れる方法というものがあって、わたしたちは楽しみながら色々な市場――久しく使わない言葉だ、もう人類史のテキストにしか出てこない――を巡っていた。らしい。

 正直なところ、最近ではSteam以前のわたしたちを思い出すことが、わたしには難しくなっている。どこかで記憶をいじられたのかもしれない。けれども最近では、「いじられたのかもしれない」という、今この手元にあるメモが無ければ、いじられたということすら忘れつつある。このメモは誰が書いたのだろうか。

 というか、「わたしたち」ということすら、近頃ではあやふやになっていた。この視点はわたしの視点なのだろうか、これは私の持ち物なのだろうか、今私の体で私のデバイスでゲームをプレイしているのは私なのだろうか。怖くはない。まだ、わたしはわたしという概念を覚えていて体で感じることもできるから。あやふやになるということはまだそこに仕切りがあると了解されていて、だからわたしのわたし性はまだ確保されていて、あやふやではなく一つになったとしても、みなと繋がれるのだから、それはそう悪くないとわたしは思う。

 一つに融け合っても、いいのかもしれない。きっとそれは幸せなのだろう。Steamに包まれて、すべてとして在るということは。もういがみ合うことも無いだろう。例えばいま宣戦を布告したバルブとだって。

 現日本国であるところの旧バルブは、Steamをもてあましていた。あまりに大きくなり制御も難しくなった機械はむしろ転移する腫瘍と化し、急速にバルブを蝕んでいった。<SteamConsciousness>がバルブ自身からすら見えない集合的無意識をつくりあげ、Steamの利用者の動きが最近では予測不可能になった。テロが相次ぎ、各地でSteamを崇拝する宗教団体が確認された。

 わたしたちはそういうものではなかった。Steamは崇拝する対象ではない。というか、Steamはもはや、実体など喪っている。それは状態だ。わたしたちが繋がっているということ、わたしたちが生きているということ、それらすべてをひっくるめた物事のありさまがSteamだ。それを崇拝することはできない。

 けれども、Steamを失ってしまえば、わたしたちは存在しなくなる。Steamはわたしたちの存在そのものとも言えるから。いまやわたしたちの意識はSteamでできていて、身体もある程度<SteamAid>をとりこんでSteam化しているのだから、それを失うということはわたしたち自身を喪うということだ。

 だから、わたしたちは戦うことにした。戦争は七時間で終わった。バルブの中枢を押さえるだけで、世界のなにもかもが降伏するのだから、そこを強襲するだけでよかった。

 戦争が終わると、わたしたちは、世界のすべての人をSteam化した。もう対立もなければ、孤独を感じる個人も集団もなかった。すべてが繋がり、すべてが共有され、すべてがすべてを実感し、アクティビティは奔流となってわたしたちに他者の生命を感じさせ続ける。

 いま、わたしたちは幸せだ。

 わたしたちは幸せだ。

 わたしは幸せだ。


 わたし?


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