自己紹介

(1) はじめまして
   

 はじめまして。Sgrコーチです。
(好きに読んでください。YouTube名前言っちゃったんですが…。)
 U15でバスケットボールの指導をしています。チームもありますが,『バスケ王国福岡』の中でもU15カテゴリーでは活躍が際立っている,北九州市にバスケットボールで貢献できればと思い,近隣の小中学校に自分の勉強もかねて顔を出しています。
 ここでは私のバスケットボール歴を中心に自己紹介をしたいと思います。

(2) 小学校時代


 バスケットボールを始めたのは,小学5年生の春。
 当時チーム内では背が高く,運動神経もよかったので期待されていたとは思うのですが,『きつい』『恐い』で溢れる環境で,そこまでの熱量もなかったので週1しか練習に行っていませんでした。
 
 夏に5年生以下の大会があり,それをきっかけに練習に行く日数も増え,少しずつバスケットボールにハマっていきました。
 6年生のときは周りの選手が上手かったこともあり,県で2位になり九州大会まで連れて行ってもらいました。
 
 とにかく怖い“監督”のもと『気合!根性!』で闘うチームで,毎試合泣きながらプレーしていたと思います。(正直楽しくはなかったかな…。)
 
 「もっと技術的なことやバスケットを教えてもらえたら…。」と振り返って思うことはありますが,それについては“監督”も『今の知識や技術をもってあの代(私たちの代)を教えていたら全国も獲れた』と言われています。
(事実,教え子には福岡第一で活躍した“小川麻斗くん”がおり,まだ“監督”も駆け出しだったのでしょう)

(3) 中学校時代


 地元のスーパースターの先輩方に誘われて,隣の校区の中学校に入学するも,声をかけてくれた先輩方はみんな県内の有名中学校に転校しているという悲劇で中学校生活開始。
 
 おかげで(?)1年生のときから試合に出ることができましたが,何を勘違いしたのか「もっと高いレベルでバスケットボールがしたい」と思い,地元の名門中学校に2年生から転校。
 
 その年の夏には先輩方に全国大会まで連れて行ってもらい,全国の舞台も踏ませていただくも,残した数字は“5ファール”のみ。いつもは厳しい先生がそんなときに限って優しい言葉をかけてくれ,奮起してその夏は徹底的にフットワークに取り組み,県選抜でスタートとして使ってもらえるまでにはなったのですが,選抜でもチームでも『とにかくミスをしない。相手のエースにフェイスガードでついて回る。オフボールでは邪魔にならない位置を動き回り,自慢の脚を使ってランニングリバウンド』というプレースタイルでした。(チームメイトにアベレージで40点を超えるような得点力のあるエース様,選抜には現日本代表の比江島慎様がおりましたので,ボールを持てないのは当然といえば当然ですが…。)
 
 自分たちの代では,新人戦も,夏も現琉球ゴールデンキングス所属の並里選手にぼっこぼこにされ九州大会止まりでしたが,新人戦は並里選手にマッチアップし,一人に28点取られたところを,夏は9点に抑え個人的にはリベンジを果たしたと密かに思っています。

(4) 高校時代

 『高校ではしっかり勉強もする。』と親と約束していたので,親と先生の間でいつの間にかバスケットボールでは公立高校で県内上位の高校に進学先が決定していました。

 福岡県には大濠,第一の二強があるので頑張っても3位,頑張らなくても3位を1,2年で経験し,バスケットボールに対するモチベーションが下がり,自分たちの代はメンバーも集まっておらず,頑張らないと勝てないのに,頑張れずに負けまくって高校バスケットを引退しました。

(5) 大学時代

『大学ではバスケはしない!キャプテンみたいな責任あるポジションもしない!』と誓って入学したものの,結局バスケットボールを辞めることはできず,サークルで継続。
 
 しかしそこで素敵な出会いがあり,今まで経験したことがないくらいのビッグマンに囲まれてのプレー(178cmの自分がスタートで一番小さい)できました。
 何よりそこで出会ったガードの選手のパスは,今まで出会ったガードの中で一番で今でも忘れられません。
(漫画みたいな話ですが,本当に縫い目までそろった状態で手の中に収まるので,高校時代からシューターになった私はドリームタイムを味わっていました。スリーを決める瞬間はまさに“無”なのです。)

 それでもやっぱりバスケットボールはそこそこに大学時代はバイクで日本中を走り回っていました。(3年間で80,000km走ってくれたバイクに感謝)

 でもこの時がプレイヤーとして一番バスケットボールを楽しみました。間違いなく。

(6) アメリカへ

 卒業後一度働きましたが,アメリカへの憧れを捨てきれずに,1年で仕事を辞めて,アメリカへ。
 2年ほどLAで過ごしました。そこではバスケットではなく新しいことに挑戦したいと思い,まったく経験のない音楽(Jazz中心に)を習いました。

 ただめぐりあわせで,日本人のお母さんをもつ小学生の女の子に,日本語とバスケットボールを教えることになり,その子の付き添いでクリッパーズでスキルコーチをしている人のクリニックや,ボーンコレクターと呼ばれる人のクリニックなどさまざまなクリニックを保護者として見学させてもらえました。

 本場アメリカにいるので,シーズン中は週1以上のペースでNBAをアリーナで観戦,LA出ないときもTV観戦は欠かしませんでした。またDrew LeagueやSummer Leagueにも行きました。(Summer Leagueはちょうど富樫くんが出た時です!)デイビス

メンフィス グリズリーズ時代のエド デイビス
この年にレイカーズにやってきて,のちに贔屓のブレイザーズへ!

デローザン

登場したときにはとにかく興奮した!ナイスガイでした!デマー デローザン

マギー

とにかくでかい!ジャベル マギー!
その他Drew Leagueではバロン デイビス,クレイ トンプソンの兄弟を観にきた父マイカル トンプソン,デビュー前にKJ マクダニエルズなどに会えました。

Summer Leagueのものはまた機会があれば…。

(7) 帰国して

 帰国してからはプレイヤーとしてバスケットボールをすることはほとんどなくなり,指導者としてバスケットボールに関わるようになりました。

 素晴らしい指導者にバスケットボールを教わりとても感謝はしているのですが,今考えると『もっとバスケットボールを教えてほしかった。スキルをつけるような指導を受けたかった』という気持ちがあります。
 やってきたバスケットボールは『気合!根性!体で覚えろ!』が多かったので,もっと頭を使ったバスケットボールがしたいという思いが強いのだと思います。

 だからきっと私は習ってきた方法とは別の方法で,指導に当たっているのだと思います。
 毎年「今の知識で去年の子たちに教えてあげられていれば…。」と思いますが,これは自分がしっかりとバスケットボールを学んでいる証拠と捉え,これからも精進していきます。

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