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2024年1月28日

日記を書いたけれど物事が派生しすぎるからいったん全部書く。いつかの推敲へ。

昼過ぎに予定をひとつ済ませて久しぶりに行く街へ。何年ぶり?もう知らないところみたい。帰り道というよりかは寄り道の場所だった。幾度となくここでご飯を食べたけれどあまり馴染んだ気持ちがない。でもちょっと懐かしかった。ホームで別れるときはだいだいさびしい。そういうのはある。

インスタグラムで目的地のお店への行き方の動画を電車の中で見たので困ることなくたどり着いた。会うのは1年半ぶり。北海道で一緒に過ごした人。会いに来てくれる人がいるたびにあの時間と今の時間は同じ「時間」だと実感する。向こうにいるときとか合間に帰ってきたときは世界が違うとさえ思っていた。地続きであると思えたほうがいい。夢だったみたいに思うけど現実だと実感できていたほうがいい。すがっているわけでもなくてそれが本当にあったという事実を理解していたい。

人の日記ばかり読んでいる。人の生活に興味があるのか、何かを取り込もうとしてるのか。あなたは私ではないのにね。まだわからない。保留。小説読めなくなっちゃった。物語に救われることもたくさんあるのに、エッセイばかり読んでいたからその人が語る別の世界に飛ぶのが少し億劫なんだろうか。

町で、あの時間の中で一緒に過ごした人が私の生活圏内にいることにまだ慣れない。こういうかたちの出会いが先だったらどうなってただろう。一緒に台所に立ったり焚火をしていた人とサイゼリヤでご飯を食べている。場所の背景が違うと話すことを整える必要があった。自分的に。こう思うと、見ず知らずの人と生活を共にしていたことの不思議さはある。生活してるって、仲のいい人と外で会うよりもベースが奥まったところにあるというか。気のゆるみとか、おはようとおやすみの距離が近かったとか。家という本来ならば敷居の高いスペースの中で会話をしていた人。わたしはあの場所を家だと思えていたのか。あのベッドを自分の眠る場所だと思えていたのか。今となってはもうわからない。反芻するたびに記憶との距離ができる。きついこともあったけどやってよかったなとも思う。多分もうないから。いろんな事したけど、案外家でご飯食べて笑ってたのとか、寝る前の時間とか、洗面所で化粧してたこととかそういうのばっかり思い出している。夜一人で外で座っているときのこと。変わらなかったって思っているけど本当はそんなことなかった。誰かと生活して、交わって、何かしてるのに変わらないなんてことはない。もともとが通ってるのをわかっているから言葉をあまり足さなくてもよかったのかなと思っていたと思う。それがひどくなると行間を読ませる話し方になるから注意が必要。でも大丈夫だった。すべてを打ち明けるとか、思考の風呂敷を広げて全部みてもらう、みたいなのじゃなくていい。少なくとも今は。打ち明けた度合いに信頼関係がはかられるとも今更思っていない。自分がどれくらい話していたかはわからないけど、言葉の量はどうであれ本当であるかが大事なのだと思っている。あとこれはとてもいい意味でわたしが無関心でいられた。あなたはあなたでよくやっているのだろうし、わたしもわたしでよくやっているから、こうして時おり道が重なればいいよね。それって本当に私が良く生きているからなんだろうな。良くというのは一生懸命という意味。さぼると自分にばれる。仕事が好きで、それにともなって変化していく生活も好きで、目標があって、それに到達できる自分自身の力への自信と周りの助けもある。信頼できる友人がいて、離れていてもこうしてまた会う人がいる。

あの時間は変わらず光っている。白くぼんやりと浮いている。消えることはなく、そして消さないようにわたしも努力しなければならない。恥じたくない人たちがいる。それにずっと守られている。

帰り道に写真を撮りながら帰った。風景を採集しているようだなと思った。

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