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今、公演のお金は誰が払っているのか

どうも深夜ガタンゴトンの裕本恭です。

写真は有名な第一次世界大戦後のドイツの写真です。

社会などの科目、暗記できないという人は資料集やYouTubeで映像や写真を見ることをオススメします。


さて、お金ってイメージでこのビジュアルを選んでしまうあたり、僕の職業柄が出ているのかもしれませんが、今日はお金の話。

あんまりきちんと分析していないし、主観なんですが、とくに小劇場におけるお金の話をしてみようと思います。


「チケット代が上がった」

もう何年も聞いている話ですが、チケット代が上がったというお話。

よくお芝居をしている人たちが嘆く言葉なんですが、これに関して思っていることは2つある。

1つめは、自分の経済状況が何年も向上していないという問題。その間に知り合いの俳優さんがそれなりに高い舞台に出るようになったってのがあるんじゃないかという話。これに関しては、実際に小劇場でやっていっている若い演劇人が感じることだと思う。で、この話に終始すると、何も言えないし、生まないので、さっさと2つめのお話をしますね。

やはり劇団制、ノルマ制がなくなってきていることが大きいんじゃないかってこと。


「ノルマの問題」

昔から俳優自らがチケットを何十枚も買い、それを知り合いに売りさばくなんてシステムはありましたね。というより今もありますね。

それがいつしか募集要項に「ノルマなし」とか条件に出てくるようになりました。僕も昔、俳優をやってた時は友人にメール(当時はまだメール)をして観に来てもらったりしていました。

数字を追うのは正直楽しくないです。(と言いつつ今は数字を追う会社員をやっていますが)

ただ、会社の場合は数字を追うことへの対価として給与があるんですね。

要はノルマ相応の対価があるということです。

つまり利益を得られれば、こういう問題は生じないってことでしょう。

じゃあ、ノルマ制がなくなり、いろんなカンパニーが満員御礼、黒字収益かというとそうではないですよね。


「劇団制からプロデュース制へ、そして、俳優主導のプロデュースへ」

そもそもノルマ制というのは劇団制だからできることだとも思うんですよね。目的を共有している劇団員がお金を出し合うというスタイルはしごくまっとうな気がするんです。だから所属劇団に責任を持つというのも。


ただそういう責任がまどろっこしくて、フリーの俳優というのが急激に増えたと感じているし、気持ちも分かる。

じゃあ、誰がお金を払っているのか?

世のカンパニーの主宰者やプロデューサーなんですね。もちろん、公演の責任者という立場上当たり前のことではあるんですが、ほとんどがカツカツの体力で行なっているなかで、公演をするために必死に資金繰りをしていたのだと思う。

そんななか平気で「今時、ノルマを課すとかあり得ない、俳優の技術をただ働きさせながら・・・」みたいな俳優さんも存在したわけです。すると当たり前ですが、主宰者側から体力的に死んでいくんですね。

「出る場所がない」と言っている俳優さんはいろいろ考えた方がいいんじゃないかと思っている。もちろん、公演の責任を最後に追うのは主宰者だ。それに異論はない。

ただ、自ら自分のフィールドを狭めたことになってるんじゃないかとは思っている。


そして、俳優主導のプロデュース制が登場していくのであるが、これになるとさらに大変なことに、よりシビアに俳優さんのプロデュース力と体力が問われることになる。今まで以上に厳しい状況になっていくのである。


今まで十分とは言えないまでも、カンパニーが用意してくれていた稽古場、資金、場所を全て自活しなければならない。そしてお客さんも「作品の力」で呼べていた部分がごっそり抜け落ちる。大変だ。


ここまで話すと、何だか僕がすごい俳優さんを嫌っているように感じるかもしれないですが、全然そんなことはない。作家としては俳優さんがいなければ、舞台が成り立たないことは知っているし、俳優さんだって作家がいなければ舞台は成り立たない。いちばん、大事なのは「最大の目的は作品」だということだ。そのうえで、関係のバランスが崩れるのが問題だということ。


おそらく、小劇場はまた劇団制に回帰していくんじゃないかと勝手に想像している。これまでの一人の強烈な個性で率いていくいわゆるワンマン劇団ではなく、それぞれの役割を認知した「作品」のために結集するタイプの劇団になっていくのではないか。(というか深夜ガタンゴトンの次期構想)


プロデュース制も悪くないのである。多様な作家さんや俳優さんから面白いと思う企画を考え、それを実行する。そのために何をするべきかということを考えるのはものすごく面白いことだし、有意義なことである。

ただ、たまにTwitterで俳優さんがノルマの愚痴やカンパニーへの愚痴をさもクリエイターの矜持のように語っているのを見かけると老婆心ながら心配になるのである。(気持ちは分かるし、自分も恥ずかしいツイートをたくさんしたことがある)


「物語は公の話から個の話へ」

で、結局、ここまで話して「公演のお金は誰が払っているの?」という問いだが、分かりきったことではあるが、お客さんなのである。

チケット代が高騰したのは、「作品を世に出すこと」で協力してきた体制が崩れてきたということなんだと思っている。作品は創るけど、お金に関しては個々にお任せという状態になっていたのが原因だと思う。


助成金や補助金が出る公演は当たり前だが優秀なカンパニーだ。優秀なカンパニーの方がチケット代が良心的に感じるのは作品自体の満足度もさることながら、そういった部分を(黎明期に強引な方法があったかもしれないが)乗り越えて来ているからだ。野田秀樹さんの公演は25歳以下だと2500円ぐらいで観れてしまうのだ。


もしかすると、これは今の政治や経済とも似た状態なのかもしれない。

トップダウンもボトムアップもどちらも必要ということなのかな。


結局、「作品」の責任は誰が持つのかという話なのかもしれない。ただ、誰かのせいにしてはいけないのだろうとも思うし、人間責任は持ちたくないよねとも思う。ただ、作品を創る以上は責任を持たないといけない。


作品は観る人、お客さんがいないと成り立たないのだ。お金に関してもそうだし、お金じゃない部分でもそう。観てくれるなら正直、タダでも良いと思っているが、それはあまりにも社会性から切り離されている行為だと最近は感じている。


最後に、そういった状況から会場費が安い小さなギャラリーやアトリエなどの公演が増えたのだが、演劇のお話が「個」に向かう傾向があると感じている。これを由々しき問題だと捉える人もいるが、僕はそうは思っていない。

ある意味、世相をいちばん表しているんじゃないかと思うし、「個」というものにフォーカスを当てる作品というのも面白い。小説のような感覚があるし、最もプリミティブな欲求で創作をしているようにも感じる。


ただそればかりだと、業界自体は細くなっていってしまう。そういうのをすくい上げて、多くの人に観せる機会というのが三鷹市芸術文化センターのネクストセレクションなのかもしれないと思っている。

ミセスフィクションズの「15 Minutes Made」もかなり公共性の高い企画だと思っている。

こういった機会を創っている人たちの努力には頭が下がる。

長々と書いてしまったが、そんなことを考えている。


目先の利益だけではないことも、目先の利益がないと持続できないこともどちらも知らないといけない。



深夜ガタンゴトンは2020年8月に新作公演を行います。以降、年2回のペースでの公演を考えております。それ以外にも「新しい気づきのプラットフォーム」をコンセプトに活動していきます。サポートよろしくお願い申し上げます。