【ほぼ0】短文>>長文(例外あり)
【ほぼ0】#43です。
今のようにスマホとネット環境が普及する以前は、テキストコンテンツといえば紙の書籍が代表的存在でした。
今では、紙の書籍が売れない、と言われます。それだけ、紙書籍以外のテキストコンテンツが普及したということです。
ブログ、ネットメディア、SNS、オンラインサロンなど、ネット経由で、スマホを通じてテキストに触れることが可能です。
ネットメディアの中には、有料のものもあります。noteでも有料記事を配信することができます。
紙書籍であれば長文を数百円で読めるにもかかわらず短文であるネットコンテンツに同じだけのお金をかけることの意味が分からない、との意見が存在します。
これは、テキストコンテンツに対する根本的な理解の誤りを原因とするものです。
より多様なテキストを気軽に検索でき、自分で選択できる。隙間時間にさえ検索と選択と読解が可能な時代です。
かつては、朝出かける前に「今日はどの本を持っていこうか」と悩んだものでした。隙間時間において何を読むか、ということを、読む前に選択しなくてはならないのです。
今では、選択の前提として「とりあえず少し読んでみる」ということが可能です。そして、短文であれば、その勢いで最後まで読み切ることさえできてしまう。
選択と読解が時間的に一体化しうる時代なのです。そして、そこは一体化したほうが、読み手にとってのコストが小さい。
そうであるにもかかわらず、受け手側があえてコストの大きい選択をするということがあるとすれば、それは受け手側が合理性を求めない選び方を望んでいるということを意味します。
合理性を求めない選び方が妥当するのは、エンタメ的な楽しみ方をする場合です。小説、エッセイ、詩集など。
小説やエッセイや詩集を読む際に、コスト意識は不要でしょう。サクッと読めるということの価値が相対的に低くなります。
読み手側において強く意識すべきことは、
自分が読もうとしているテキストがどのような目的に基づくものであるかを理解してから読む
ということです。
コスト度外視で構わないのか、ということは、読む目的によって定義されます。
何のために読むのか、そこにエンタメ的な要素はどれだけあるのか、ということを、常に意識しましょう。
ここまでは大原則論について述べましたが、重大な例外があります。
エンタメ的要素が皆無のテキストであったとしても、長文の方が良い場合があるのです。
この例外を知っておきましょう。
それは、
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