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【ほぼ0】×根性論 ○精神論

【ほぼ0】#31です。

最近のニュースでもまだ「体罰」という言葉を耳にすることがあります。

スポーツの部活動において監督やコーチがクラブ員である生徒に暴力を振るう、というもの。

体罰は刑罰法規に抵触する行為であり論外ですが、体罰を加えた側の(さらに論外な)言い分として、

「困難を乗り越えるような根性のある者が全国大会などの選抜メンバーになれることが多いので」

といったものがあります。

この言い分の中には無数の突っ込みどころがあるのですが、そのうちの一つとして「根性論など不要」ということを解説してきます。

そもそもの疑問として「根性とは何か」という点が存在しますが「負けん気」や「熱意」といった程度の意味でしょうか。

仮にそうだとして、勝負事で結果を残すために「負けん気」や「熱意」は基本的に不要です。

勝負事は、熱量の差を競うものではありません。負けたくない、勝ちたいと強く思うだけで技量が向上するのであれば誰も苦労しません。

思いが強くても結果に繋がらないからこそ、多くの人が悩みながらもより努力するわけです。

そして、ただ努力するだけであればそれは結局熱量の差と同じ意味合いになってしまいます。正しくない努力をいくらしたところで、絶対に技量は向上しません。

淡々と技量を向上させて、いざタイミングが訪れたときに全力を出し切れるようにしておく。これが、勝負事における絶対的なセオリーです。

根性を鍛えるのではなく、技量を向上させる。そして、技量の工場のために根性は一切不要です。長時間のトレーニングが非効率なものとして推奨されないという風潮は、今後さらに広まっていくでしょう。

合理的なトレーニングを合理的にこなす。それが、技量向上のための絶対解なのです。

ダラダラと長時間にわたって身体に対して物理的な負荷を与えたところで、技量が合理的に向上するわけがないのです。

勉強分野においてもしかりで、長時間勉強した人から受かっていく、というものではありませんよね。時間が問題なのではなく、過程としての合理性こそが問題なのです。

過程としての合理性については、こちらの記事も参考にしてください。

過程を最適化する、そしてその最適化された過程を合理的にこなしていく。これが、全ての競技(勉強さえも立派な競技です)における基礎セオリーなのです。強く肝に銘じておきましょう。

要するに、根性論など一切不要で、根性論を意識する暇があればその時間で過程を最適化することに全力を尽くすべきだということです。

過程の最適化は、常にアップデートされていくべきもので、最初に策定したプランが完成形ではありません。プランは秒単位で変化させていくべきものです。

プランニング、メニュー作成、ここに時間を費やしましょう。根性論の入り込む隙間などどこにも存在しません。

根性論は人を駄目にします。不合理な戦術は才能を枯渇させます。才能とは、枯渇するものなのです。

根性論の有害性について述べる際に、必ず声を大にして述べておかなくてはならないことがあります。

それは、

「根性論は不要だが精神論は必要」

ということです。

×根性論

○精神論

根性論と精神論を同一視してはいけません。根性論は精神論の中の一つであって、精神論自体は極めて重要なものです。

先述のとおり、最適化された過程を合理的にこなすことがベストという考え方の中で、果たして(根性論ではない)精神論が入り込む余地があるのでしょうか。

あります。絶対にあります。

むしろ、それを意識できない人は、最適化された過程を合理的にこなすことが不可能です。

最適化された過程を合理的にこなすために絶対に必要な精神論、

それは、

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