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【ほぼ0】切り分けよ、結果と過程を、、

【ほぼ0】#35です。

結果を出すためにはどうすれば良いか、ということを誰しもが考えるはずです。

試験の合格点を越えるためにどうすれば良いか、特定の人に好かれるためにどうすれば良いか、、

「試験の合格点を越える」

「特定の人に好かれる」

これらは全て「結果」です。

その結果を追求するために、過程を適正化するのです。

適正化するのは「過程」であって「結果」ではありません。

結果そのものを直接コントロールすることはできません。結果はあくまでも過程から導かれるものであり、直接コントロールできるのは過程の方のみなのです。

ここで重要となるのが、

「そもそも何が結果で何が過程なのか」

ということ。

すなわち、結果と過程を峻別しないことには正しい努力を行うことができないということです。

過程だと思っていることでも実は結果だった、という勘違いは意外と多いものです。

過程だと思っていた要素が結果であるとすれば、直接コントロールできない要素なのですからそもそも「適正化する」ということが不可能ということになります。

コントロールできないことについて悩んでも、時間と気力の無駄なのです。

まずは直接コントロールできることに全力を注ぎます。

相手を変えるよりも自分を変えるほうが簡単、と言われることがありますが、これもまさに「直接コントロールできることに全力を注ぐ」ということの具体例です。


何をする際にも、常に「これは自分でコントロールできるか、できるとしてそれは直接か間接か」ということを強く意識しましょう。

コントロールできないことに肉体と精神を捧げても無意味なのです。

祈る、という行為がありますが、宗教的であれ非宗教的であれ、祈る前提には必ず「コントロールできる部分については全て手を尽くした」という確信がなくてはなりません。

何とかなる、という「おまじない」も、手を尽くした人にだけ効果があるものでしょう。まあ、手を尽くしたとしても「おまじない」の効果が無い場合もありますが、、

結果ではなく過程に全力を注ぐという発想が分かった、そして結果と過程を峻別することの
重要性も理解した。

けれど、それでもやはり「その要素が結果なのか過程なのか」という峻別が難しい、と感じることもあるでしょう。

言い換えると、

コントロール可能だと思っていた要素であるにもかかわらず結局はコントロール不可能だということが事後的に分かってしまった

ということ。

このような悲劇を極力避ける、すなわち「コントロール可能な要素か否か」を冷静に判断するための心構えがあります。

その「極めて重要」な「心構え」

それは、

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