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情報が過多になり多岐になり、真実がわからず、無関心になる。
きっとどんなことでもこれを繰り返してきたはずである。
だから出来事の本質や結論を知るまえに忘れてしまう。
始まりは少なくと両手の指で数えられる出来事だった。
出来事に対する対策と、検証が始まる。
それをすべきかと、正しいかが始まる。
したかしなかったか、正しいか間違ったかが始まる。
それぞれに基づいた新しい出来事ができる。
こうやって分岐が始まると一番最初の出来事が忘れられる。
そして対策と検証、
したかしなかったか、正しいか間違いかの当時者が出来事の主役になる。
延々と分岐が始まり、当事者、発言者が正しいか間違ったか「だけ」になる。
ただ単に「打って響くから」だと僕は思う。
おおもとの「どうにもならない」から「どうにかなる」対象の方が
「面白いから」だ。
恐怖と享楽にわく感情は似ていると思う。
例えるなら、恐怖でも長いと「終わってしまうのが寂しい」と勘違いするからだ。
幼少の台風や病に感じたものと同じ。社会的責任が変化を植え付けただけだ。
異常なまでに品行方正を求める昨今、
正直、向かい側の人間の品行方正の欠如がそのものなのだと思う。
差別と言うが、その歴史にたいする知識もなく、
不祥事と言うが、その身の経験に心当たりがないのがそもそもの原因だ。
自らが理想からほど遠くなると、理想であるべき対象に馬鹿程厳しくなる。
誰も傷つかない世の中なんてない。
それは誰もが何も話さず、誰とも関わらないうえ、
認識を全て共有するか、おそろしく品性を上げて許容し合う以外ない。
多様性などと言うが、ただ「使いやすい言葉」なだけで、
「それで殴れば解決する」としか聞こえない。
と、
ここまで読んだ時点で「最初の出来事って何?」を忘れているはず。
そしてイライラっと感じて、興味を失っているはずだ。
何が正しいか。少なくとも自分自身の中で判断できていたころが懐かしい。
複雑になればなるほど、知識がついていかず、正しさもわからず、
手持ちの稚拙な理論ぐらいしか根拠にならなくなってくる。
当初、引用できると「差しあたって宛てにした」情報源すら
疑念を持ってしまっているからだ。
不思議なことに、最終的には「自身の気持ちの持っていき場」だけになってしまう。
となると、「新しい」少なくと両手の指で数えられる出来事によりかかる。
んなことより、庭に植えたプチトマトが雨が多くて実が割れて困ってる。
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