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晩節

僕らくらいの年齢は、まだ自分の晩節を都合よく考えている。

少なくとも、自分の親と同じような関係を子供たちと持ち、
できれば、加齢独特の病には最低限かからず、
小さい残りの夢を片付けて過ごしたい。と願う。

全盛期に築いたものに自負や誇りを持てたなら
どれほど彩が豊かなものだろうと、私にだって思う。

晩節の終わりが近づけば近づくほど、維持できることに
願いを強く持つと、私でも思う。

その晩節が、不幸にも狂うというのは、「一人としての物語」としては
とてつもない悲劇だ。

「私」という人間が物心ついたころの記憶、
繰り返してきた日常の数々、喜怒哀楽。
失敗があっても、その先にはまだまだ先へ伸びている道はあった。

今のSNSで嬉々と踊る方々、「君はどこまで考えた?」と問いたい。

どこまで「この先」の想像をしているかを、
「書かずとして共有できること」を願いたい。
平たい話は、ここじゃなくてもできるので違う相手でしてください。

ただ遠くで、「シナリオを捻じ曲げたところで私はもう終わる」と感じてしまったので。

人道を外れたとしてもその気持ちに抗える強さなんてないな。

それだけ「私なりに」美しい残りの夢の途中だったのだろう。

と。






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世間は老害老害と言って馬鹿にすることもあるけど、
自分が「そうならない」は何かに保証されているものではなく
ひとつ何かを失う。残りの夢の組み立てができない。
小さいことの繰り返し、先に延びているシナリオを描く力を
諦めてしまわないようにしていないと、誰にだって
自覚していないままなっていくのだと思う。
僕らは結局、仕事、家族、趣味、友人、その他もろもろのオプションが
張り付いてて今の「自分」が維持されていて、剝がれた時の状況を予想はしていても
体験できていないことはたくさんある。
予想外の悲劇とそのダメージは人それぞれで、
そこで真っ直ぐであることはとても強くないと無理だと思う。
正しく曲がる。そんなことを嬉々とする彼らに導く力があるのだろうか
「あの程度の言葉の力で」

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